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地命寺城 ~義人源三~

グーグルマップを見ると、勝本城のある城山から谷を挟んで東側に地命寺城の表示があります。


地命寺城
場所はココ

表示場所は現在勝本中学校のグラウンドになっています。


IMG_7978.jpg
勝本中学校


IMG_7977.jpg
同校グラウンド

城の詳細は不明で、寛永年間に代官中尾丹弥の屋敷があった場所といいます。
『壱岐ナビ』にこの中尾丹弥に関する記述があったので以下引用(内容は源三神社の案内板のもの)。

『義人源三』

源三は安永七年(1778)に可須村の岩本源七の二男としてうまれました。

源三は自分の命にかえて平戸藩の田畑割りなどの不正を徳川十一代将軍家斉に訴えた義人として里人にしたわれています。

源三の訴えた内容は、平戸藩では年貢の収納に納桝(三斗五升入り)を用い、給与の時には京桝(三斗二升入り)を使い、その差を役人が自分のものにしていること、土地の割りかえの時、割奉行の中尾丹弥らが自分勝手に良い土地を先取りし、残った地味の悪い土地を人々に分け与えていること、鯨運上の一律三百両の不当なことなどであった。

源三の苦労を「香椎村青年読本」は、次のように伝えています。

役人たちの源三殺害計画を知った源三は手拭い包みの徳利を入れ頭の形をつくり、その上に布団をかけ、カヤをつり、すぐ逃げ出せるよ うに家の裏戸を明けはなし、手にナタをにぎり、格子窓の下で息を殺して丹弥一味を待ちかまえる夜がつづきました。

文化六年(1809)七月十六日の深夜、丹弥の大身の槍が闇にきらめき、寝床をつきさしました。源三はナタで槍の穂先を切り落とし、裏戸から一目散に走りでました。印通寺から呼子に渡った源三は、丹弥の槍の穂先三尺と直訴状、百五十文の銭をしっかり抱いていました。

文化八年(1811)師走、江戸にたどりついた源三は、将軍への直訴の機会をうかがい、文政二年(1819)十月、江戸二丁堀で将軍の行列に出会い、直訴状を籠の中に投げ入れることができました。 将軍への直訴の罪は重く、源三は捕えられ、四十日かけて平戸へ送られ、平戸の牢に百日あまり監禁されました。

文政三年(1820)三月二十七日、壱岐へ送り帰された源三は、丹弥屋敷の馬小屋(現在の勝本中学校校庭の北の階段登り口のところ) に押し込められ、米も水も与えられず、草や葉が投げ入れられ、畜生よばわりされ、鞭で打たれていました。 同年旧四月二日の処刑の日、勝本町内を引きまわされた源三は、坂口町あたりで二歳の時に別れた娘のハツと十二年ぶりに言葉をかわし、ハツがさし出す大好物の焼餅を食べることなしにハツに与え、その夕刻百間馬場の刑場の露と消えました。源三、四十三歳でした。

この二十日後、幕府から「壱州百姓源三なる者、すみやかに江戸につかわすべし。もし、病にて臥してあらば医者を具して上がらしめよ。」という命令が届いたといいます。

しかし、すでに源三は、この世の人ではなく、里人は無念の涙を流し、源三の冥福を祈りました。

墓は東触の田中家墓地内にあります。

昭和六十二年十二月

勝本町教育委員会



IMG_7976.jpg
勝本中学校校庭北の階段登り口

ここが丹弥屋敷の馬小屋があったところでしょうか。



所在:長崎県壱岐市勝本町仲触
評価:

遺構・表示物なし。高台の上という立地条件のみ感じ取ることができます。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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