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亀丘城 ~壱岐統治の拠点~

民宿滝の上を出発し、この日最初に訪れたのは郷ノ浦港からほど近い場所にある亀丘城。壱岐市役所の隣にある亀岡公園が城の跡地です。この公園は小山の山上にありますが、車で山上まで登れて駐車場もあるので安心。しかしレンタカーでなく当初の予定通りレンタサイクルを利用していたら、小山とは言え初っ端から軽い坂登りをする羽目になっていました。壱岐は坂道が多く、いくら電動アシスト付きといえど自転車ではなかなか大変な面があるとこの時点ですでに察しました。


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山上の駐車場から城への案内表示が出ています。説明板の表記は普通に「かめおか」ですが、この案内看板には「kamenoo」とあったので「かめのお」呼びも使われているのでしょう。以前はこの場所に元寇の予言つながりで日蓮上人の像があったようですが、なぜか撤去されていました。

ちなみにこのとき駐車場には結構多くの車が停まっており、一瞬この公園は人が多く訪れるスポットなのかと思いましたが、園児と着飾った両親が歩いている姿をちらほら見かけたので、ちょうど入園式の日だったのかもしれません。


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城址碑!                  説明板

亀丘城(別名、亀尾城)は、鎌倉後期の永仁二年(1294)、肥前国上松浦波多郷(現、佐賀県唐津市北波多)の岸岳岸嶽主・波多宗無が築城したと伝えられる山城である。
波多氏は中世、松浦郡地方に割拠した武士団、松浦党の一員である。松浦党の祖は、延久元年(1069)に摂津国渡辺荘から松浦郡宇野の御厨検校ならびに検非違使に補任されて下向土着した源久で、久は松浦氏を名乗り一族に松浦の各地を分封して独立させ、勢力の拡張を図った。一方、波多氏の祖は源持である。持は久の次男で、波多郷を与えられて波多氏を名乗った。以後、文禄二年(1593)、波多三河守親まで十五代(十六代とも)に及んで断絶した。
亀丘城を創建した宗無(法名)については不明であるが、第三代の波多勇か第四代の明と思われる。定かにする史料はないものの、波多氏は元寇直後の壱岐に進出して、支配の根拠地とすべくここ武生水村一帯を領分としたものであろう。
波多氏が壱岐島全島を掌中に収めたのは文明四年(1472)11月で、第十二代下野守波多泰は、松浦党の志佐・佐志・呼子・鴨打・塩津留の五氏が分治する壱岐を急襲して領有することとなる。そして亀丘城を修築して入り、一族を留めて統治する。第十三代は下野守興、第十四代は壱岐守盛だが、盛は嗣子のないまま天文十一年(1542)に歿した。この後、後継者を巡る内紛が生じ、永禄七年(1564)には重臣日高甲斐守喜の謀反に発展し、波多氏は日高氏によって岸岳城を追われることとなる。しかし、龍蔵寺・有馬両氏の助勢を得て奪回し、敗れた日高氏は壱岐に逃れて亀丘城を奪い、壱岐を押領した。
永禄十一年(1568)、日高氏は龍蔵寺氏・波多氏に対抗するため平戸の松浦氏と誼を結ぶが、元亀二年(1571)には松浦氏に従属することとなる。以後、壱岐は松浦氏(平戸藩)の領地となり、松浦藩は明治までの約三百年間、亀丘城に城代と郡代を派遣して統治した。
城郭の遺構は中世以降の長きに渡るため旧態を損しており、北面に一部石垣を残すのみであるが、典型的な山城としてその規模はよく整ったものであったといわれている。
郷ノ浦港を眼下に一望する亀丘城は、永仁の築城から明治に至るまで、壱岐の軍事・政治の中枢をなした城の一つであった。
文久元年(1861)の『壹岐名勝図誌』には当城の規模を、「本丸 東西十五間(約27m)、南北十二間(約22m)、二の丸よりの高さ凡そ五間(約9m)程。二の丸(現在地)東西三十六間(約65m)、南北十七間余(約31m)。三の丸 東西五十六間(約102m)、南北廿二間(約40m)或いは十四間(約25m)」と記し、城名は二の丸にあった亀石と呼ぶ名石にちなんで名付けたと伝える。(説明板参照)


説明板の内容を書き起こすのは毎度骨が折れますが、現地では時間短縮のためほとんど流し読みで頭に入ってないので、ブログ掲載時に文字起こしをするのは自分の理解を深めるためにも行う意味があります。



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駐車場(二の丸跡)から内部に入ると左手に土塁、右手に本丸塁壁が続き、ちょうど堀底を歩いているかのような通路になっています。周辺土塁には石積みが見られるところもありますが遺構かどうかは不明。左手土塁によじ登ってみると、すぐ眼下には幼稚園。さっきの人たちはここに向かっていたのか。幼稚園の先には小学校・市役所。方向を転じて丘陵の北側直下には郷ノ浦中があり、この城の立地場所は現在も壱岐の中心部であることがうかがえます。



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ぐるりと半円を回り本丸内へ。公園として綺麗な広場になっていますが、遺構は特にありません。目立つ石碑も城とは無関係のものでした。



所在:長崎県壱岐市郷ノ浦町本村触
評価:★★

城としての名残を多く残しているのは本丸部分のみで、それも公園化により遺構は多くはありません。それでも現在の地形から要害性や拠点性を感じ取ることはできます。ちなみに今回私は見逃しましたが、各種サイトを見ると城の本丸北面下に残存石垣があり、写真を見る限りそれなりの規模であるようです。私的には見ても見なくても評価は変わりませんが、石垣が好きな方は忘れずにチェックしておきましょう。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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