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金石城 ~宗氏対馬治世の拠点~

「ふれあい処つしま 」から本日の宿営地である東横イン対馬厳原へ到着するも、チェックインは16:00からとのこと。現時刻は15:30。30分もじっと待機していることはスケジュール的に不可。できればここで荷物を下ろしておきたかったが、しょうがない。荷物を背負ったまま再び探索に出ます。10分以上損してしまった。


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「対馬市交流センター」~「ふれあい処つしま」の前を再び通り、西へ進むとこの石垣が現れます。


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石垣の上には長崎県立対馬歴史民俗資料館があるのですが、施設改修のため2017年(平成29年)3月31日をもって休館。入館料無料だったらしいので残念。



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2019年オープン予定の対馬博物館(仮称)完成予想図



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石垣下の「桜橋」の表示のあるこの場所は金石城の東端部で、城内への入口にあたります。複数の絵図からかつてここに門が建っていたことがわかります。



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上記場所から西に進むと現れる櫓門は寛文9年(1669)完成。その後文化年間に火災で焼失したのち再建し、大正8年に解体。現在の櫓門は平成2年に再建されたもの。

金石城は中世末から近世にかけて、宗氏の居館が置かれた城である。東流する金石川に沿って、高低差のある細長い平坦地に造られ、東西約400mの敷地が石垣で区画構成されている。東端から120mほどにある櫓門を抜け、桝形部を過ぎて対馬宗家関係資料などの複数の絵図に描かれた大階段を上がると、館があった平地に出る。
この地に居館が置かれたのは16世紀のことで、発端は享禄元年(1528)に起きた一族の内紛であった。当時の居館であった池の屋形を焼失し、金石原の地に難を逃れた14代宗盛賢(のちの将盛)が新たに建てたのが金石屋形である。
ここが体裁を整え、城となったのは、17世紀後半のことであった。将盛が屋形を築いてから130年ほどのち、第3代藩主宗義真の治世において城下に大火が相次いだ。ことに万治二年(1659)と寛文元年(1661)に起きた大火はすさまじく、町に甚大な被害を与えた。義真は幕府の援助を受けながら再興を期して大規模な町の整備に取り組み、好況の倭館貿易にも支えられて金石屋形の拡張と改修も行った。国分寺を金石原から現在地の天道茂に移して、城壁を整え櫓を建て、現在の城の体裁が完成した。こうして寛文五~九年(1669)頃にかけて整備された屋形は金石城と称され、対馬治世の拠点となった。なお、その後、義真は延宝六年(1678)に桟原に居館を造って住まいを移し、幕末に至った。(説明板参照・抜粋)




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朝鮮通信使幕府接遇の地

文化8年(1811)、易地聘礼で朝鮮通信使が来島した際には、幕府上使・小笠原大膳大夫(小倉城主)の宿館として用いられました。その際新たに各種施設を建築していることが資料に残されているとのこと。 



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李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑

1931(昭和6)年、新婚の宗武志公と徳恵姫はそろって対馬を訪れ、島民の盛んな歓迎を受けた。徳恵姫は朝鮮王朝第26代高宗の王女(翁主)である。
この碑は結婚を祝って当時対馬に住む韓国(朝鮮)の人々によって建てられた。また清水山城には対馬の人々による慶祝のツツジ植栽の記念碑が遺されている。
その結婚は25年にわたり、多くの困難にもかかわらず、一女正恵姫と共に信頼と愛情の絆で結ばれていた。しかし両民族の関係はまことに厳しく、時代の激流の中で1955年やむなく離別に至り、武志公は1985年、徳恵翁主は故国において1989年、逝去された。
ここに歴史に埋もれていたこの碑を再建し、お二人の苦難の生涯を想い起こしつつ、双方の民族の真の和解と永遠の平和を希うものである。(説明板参照)


この碑の近くの木陰では韓国人と思われる団体がシートを敷いて宴会をしていました。



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上記記念碑のすぐ奥にあるのが国指定名勝・金石城庭園。入園料300円。受付のじいさんがうたた寝してた。



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対馬の厳原に所在する金石城跡は、対馬藩主宗家の執政の拠点として、17世紀後半に整備された城館の遺跡である。金石川沿いに開けた谷筋の最奥部に位置し、宗家墓所である万松院の傾斜面が西から迫り、墓所から清水山城跡へと連続する山域が北に控えるなど、照葉樹林に覆われた周囲の自然環境は良好である。
金石城跡の庭園は、城跡の敷地の西南隅部に位置する。戦後、厳原中学校の校庭の一画に巨大な景石を中心に整備された噴水の園池が存在したが、宗家文書の『毎日記』には元禄3年(1690)に「御城」の「心字池」の作庭工事が行われたことを伝える記事があり、校庭に残された園池の起源を示す記事として注目されていた。同時に、文化3年(1806)から翌年にかけて朝鮮通信使を迎えるために城内の整備が行われ、その際の作事に関する複数の図葉には城館の西南隅部に大規模な「泉水」が描かれていることから、中学校の校庭の施設として親しまれてきた園池との関係も指摘されてきた。
金石城跡は平成7年(1995)に史跡に指定され、平成9年(1997)から平成16年(2004)にかけて、史跡の整備事業の一環として園池の発掘調査が行われた。その結果、中学校の施設であった園池の巨石の多くは、江戸時代の金石城庭園の築山に据えられた景石をそのまま踏襲するものであり、その北側には中島を擁する大規模な泉水が造営されていたことが判明した。また、泉水の造成に当たっては、漏水を防止するために版築工法による底打ちを行っているほか、特に中島に架かる石橋の周辺など見所となる部分には、対馬地方に固有の石英斑岩から成る白色の風化土を用いて化粧を行っていることが明らかとなった。さらに、中島の水際を中心に細かな玉砂利を敷き詰めた洲浜状の汀線が見られ、近世庭園としては希少な意匠・構造を持つことも判明した。玉砂利敷の汀線から巨大な景石へと連続する意匠には、対馬地方の東海岸に見られる風景とも相通ずるものがあり、対馬の独特の風土を活かした作庭精神をうかがい知ることができる。また、園池の北から渓流を象ったと思われる流れを経て、北西側の山際から湧き出る水を導き入れ、園地東側の石組水路へと濾過排水する特殊な水回りの構造についても注目される。
発掘調査により明確となった意匠・構造上の特質を踏まえ、平成11年(1999)より平成16年(2004)まで泉水の修復及び整備工事が行われた。こうして、金石城跡の庭園遺構では、庭園の審美的価値の源泉を成す園池の骨格が極めて良好に遺存するのみならず、その地割や構造などが示す庭園史上の高い価値に加え、長い歴史の中で潜在化していた芸術上又は観賞上の価値が修復整備によって顕在化されることとなった。このたび、修復整備が完成した庭園を名勝に指定し、その保護を確実にしようとするものである。 (weblio参照)




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きれいに整備されてはいるが、個人的には300円払うほどではなかった・・・



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庭園出口(一方通行)から退出すると金石城の搦手門に出ます。城の西端部に位置し、対馬藩主宗家墓所との境にあたります。現在は一般に搦手門と呼ばれるが、19世紀の複数の絵図には「銅(あかがね)門」と記されているとのことです。



所在:長崎県対馬市厳原町今屋敷
評価:★★☆

現在急ピッチで整備中のようで、いたるところでフェンスや工事資材、仮設建物などが見られます。そのためかなり雰囲気が損なわれていますが、整備が完了したらだいぶ印象も変わることでしょう。現状でも随所に石垣が見られ、雰囲気を感じ取れるところも多いです。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日生野菜摂取しないと死ぬ。
© 2010 城館探訪記

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