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斗南陣屋 ~本州最北の陣屋~

戊辰戦争に敗れた会津藩主松平容保は謹慎処分となり、所領は没収されますが、明治2年容保の嫡男容大をもって家名再興を許され、陸奥下北の地に3万石(三戸・上北・下北三郡および二戸郡の一部)を与えられて斗南藩を立藩します。

藩庁は一時五戸代官所に置かれたのち、田名部の円通寺に設置されます。


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円通寺

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斗南藩史蹟地 円通寺

明治維新は会津藩にとって、まさに動乱の時代でした。朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は、翌明治2年9月、全国唯一の移封処分を受け最花の地へ挙藩流罪となったのです。
ここ円通寺は、明治4年2月18日数え年3才の松平容大公を藩主に迎え、斗南藩の仮館として藩庁が置かれた場所で、容保公、容大公が起居をともにされました。現在も容大公愛玩の布袋像などが保存されています。また、同時に田名部迎町大黒屋文左衛門方に開設中の藩学校日新館もここに移されました。境内にはこの地に残った会津人の手により、明治33年8月容大公揮毫による会津藩士の招魂碑が建てられました。碑文は会津藩士族南摩綱紀博士の撰によります。(説明板参照)



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「招魂之碑」

以下読み下し文

明治戊辰の乱、会津藩士各地に奮戦す。死者数千人、その忠勇節烈は凛乎として風霜を凌ぐ。乱平ぐに及び生者は皆、一視同仁(差別を設けず全て同じように愛する)の澤(恩恵)に浴す。而して死者の幽魂は独り寒煙たる野草の間を彷徨し、その所を得ず。ああ哀しいかな、今茲(ことし)庚子(かのえね)はその三十三年忌辰(命日)なり。是に於いて旧藩士の南部下北郡に居する者、碑を圓通寺に建て、招魂の祭りをあい謀る。この寺は即ち旧藩主容大公の斗南に封せらる時の館なる所也。



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本堂建替工事中               徳玄寺

斗南藩の表高は3万石であったが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられました。円通寺西隣にある徳玄寺はまだ幼かった藩主容大の遊び場、および食事の場所であったようです。当時三歳の容大は、移住した藩士を激励するために各地を回村し、人々の精神的支柱となりました。また徳玄寺は重臣たちの会議場でもあり、大湊の開港や種々の産業開発などが議論され、実行に移されたといいます。



所在:青森県むつ市新町4
評価:

探訪時は酷暑であったため、旧会津藩士が経験した厳冬期の厳しさというものは頭ではわかっていても実感はできません。ちなみに会津藩は新政府に問答無用で斗南送りにされたと思っている方も多いと思われますが、実際は旧領内の猪苗代との二者択一で自ら斗南を選択しています。その理由についてはこちらこちらのページを参照のこと。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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