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七戸城② ~「姫塚」の伝説~

七戸南部氏と七戸城について
<参考サイト>七戸町商工観光課・しちのへ観光協会HP 『歴史散歩』内


1 鎌倉時代

文治五年(1189)に南部の始祖南部光行が山梨県南部町から糠部五郡(現在の南部地方)をいただいたと言われている。建久二年(1191)に光行の四番目の子どもの七戸太郎三郎朝清が七戸領主となったのが数年後の正治元年(1199)と言われている。この朝清は、七戸氏および久慈氏の先祖となると伝えられている。 また、朝清系の七戸氏が「七戸氏」を名乗る最初の人であることから、この朝清が第一期の七戸氏と呼ばれている。
第一期の七戸氏の七戸地方、広くは糠部地方における事跡などについてはほとんどわかっていない。鎌倉時代末期には、七戸地方には地頭(代)と呼ばれる治安維持と租税の徴収にあたった人として工藤氏がいた。そしてめまぐるしい変遷の後、七戸は南部政長の領地となり、やがて七戸第二期の七戸政光の七戸氏に引き継がれていくことになる。



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カメさんルートで下まで降りてきました。「本城」と「貝ノ口」の間にある低地は堀跡で、今は一部花菖蒲園となっています。


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七戸城東門

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この場所に建立された「七戸城東門」は、文献資料に基づきこの場所に復元整備されました。
復元整備の根拠のひとつは、七戸町に所在する青岩寺の過去帳に天正十年(1582)まで「旧螺口(きらぐち)」に青岩寺があったということが記されており、「旧螺口」は現在の「貝ノ口」にあたるものと推測されること。
もう一つの根拠は、この場所は七戸城を守るという観点からみると非常に弱い部分にあたり、この場所から簡単に城主が居た場所(北館曲輪)に攻撃されやすく、そのようなことから寺院などの施設を設け、七戸城に侵入してくる敵を防ぐ役割も果たしていたと考えられること。
以上のような歴史的及び城の構造的な理由から、ここに門と塀の復元整備を行いました。(説明板参照)



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続いて来た道を戻り「姫塚」へ。

2 南北朝時代

南部氏が糠部地方の一部の支配者として、その名がはっきりと史料の上に出てくるのは、建武二年(1335)、南部六郎政長である。南部政長は、元弘三年(1333)新田義貞の軍に従い鎌倉を攻撃し、功績をあげた。その功績によって建武元年(1334)五月三日、後醍醐天皇から甲州倉見山(現在の山梨県都留市)を拝領した。
後醍醐天皇は、元弘三年十月、北畠親房の後見のもと、その子顕家を陸奥守に任じ、第八代皇子義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州に下った。この時、甲州波木井の地頭だった波木井南部四世の師行を供奉して陸奥の国府多賀(仙台市)に着き、選ばれて「国代」すなわち国司である顕家の代官のひとりに任じられた。師行は北奥糠部と津軽の担当となり、北奥統治の拠点として糠部郡の八戸を選び、根城を築城したと言われている。
波木井南部四世指師行が糠部に下がってきてから、この南部氏(以下根城南部氏という)は、五世政長、六世信政、七世信光、八世政光と五代にわたって南朝のために忠節を尽くし、後世、南部五世の「勤皇の南部五世」と讃えられた。

根城南部第八世政光(七戸城の築城者)
政光は六世信政の二男、七世信光の弟で、七戸城を本格的に築城して、街道や寺院の創建なども手がけた。祖父政長から母親を通して七戸を配分され、七戸城を新たに築城、在城し、病弱な根城城主であった兄信光とともに糠部の治安維持に努めた。兄信光が治めている甲斐の波木井に帰ってからの糠部・津軽の管理は政光を波木井に呼び天授二年(1376)政光に家督を譲った。
元中九年(1392)閏十月五日、南朝の後亀山に天皇が皇位を北朝の後小松天皇に伝え、南北両朝が合体となったので、政光は明徳四年(1393)の春に甲斐を退き、奥州に下り、根城に移り住んだ。晩年は八戸市にある根城を兄信光の長男長経に譲り、政光は七戸に移り大規模な土木工事に着手したと考えられている。まず南部氏の連絡路でもあった街道の整備を手始めに、街道の通りには見町観音堂や小田子不動堂といった寺院を配し、さらには七戸城の普請と築城も大々的に行われた。そしてその七戸城と城下町は実の子孫三郎政慶に委ねられたのである。



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「姫塚」

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昔、七戸城の殿様には美しいお姫様がおり、身分の低い武士と恋仲となり、それがある日、殿様に知られ、相手の武士は殺されてしまったそうです。その殺された武士の後を追い、お姫様も自害したと伝えられています。ここにある二つの塚は、お姫様と武士がこの世では一緒になれなかったが、あの世で二人が一緒にいられるようにという思いで、二人が埋葬されたものと言われております。(説明板参照)


この塚の由来については諸説があり、呼び方も「姫ヶ塚」「鍋塚」などとも呼ばれているとのこと。


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塚                    ウサギさん

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水堀・土塁

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本城内

姫塚からウサギさんコースを進むと水堀が出現。この水堀の東側が本城、西側が北館にあたります。

3 室町時代

この時代の七戸城の歴史はほとんど知られていない。後世に書かれた「東北太平記」などによると、康正二年(1456)田名部の蠣崎蔵人の乱によって七戸城が落城したと記されている。さらに文明十五年(1483)三戸南部のお家騒動でも七戸城が落城したとされている。
しかし、平成三年からの発掘調査の成果を見る限りにおいては、落城したという痕跡は確認できていない。



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標柱          「北館」

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北館曲輪整備復元想定図

北館は広い平場になっており、案内図によると建物の復元計画もあるようです。

4 戦国時代

(1) 戦国末期の南部氏
天正元年(1573)室町幕府は滅び、豊臣秀吉が天下統一の大業に着手しはじめる天正十年(1582)六月より約五ケ月前、南部では、田子城主である南部亀九郎信直が迎えられて三戸城に入り、三戸南部氏の大守となった。しかし信直の大守就任を不服に思う南部家の有力武将もいた。その中でもとくに九戸政実、七戸城主の七戸家国、久慈政則らがもっとも不服に思っていた。その不服はやがて、「九戸政実の乱」へと発展し、繋がっていくことになる。

(2) 奥州仕置き
天正十八年七月(1590)、小田原城を攻略した秀吉は日本統一のための最後の仕上げとして、奥州討伐の大軍を発し、宇都宮に至り、やがて会津に進駐した。 奥州の豪族の中には切取勝手(武力による略奪)の中世という時代は、まさに終焉を迎えようとしていた。しかしそのような時代にあることを感じ取れない武将もいた。なかでも葛西、大崎、和賀、稗貫の諸氏は十月五日に浅野長政が帰途に着くや、その手薄を見て、一揆を起こした。冬に入り、豊臣方の陣の引き上げが続くと、豊臣軍に対して恐るるに足らずと見て、一揆はさらに拡大、翌十九年(1591)正月には九戸政実までもが反旗を翻した。三月十三日、九戸政実は一気に行動を起こし、七戸家国は津村伝右衛門の居城である伝法寺城を攻撃したが、失敗に終わった。しかし、これらの失敗にもかかわらず、九戸政実軍の勢力は増大し、七戸周辺の地史の多くは、九戸軍の有力者七戸家国に味方した。
一方、蒲生氏郷と伊達政宗は葛西・大崎の一揆の鎮圧を豊臣秀吉から命令され、六月、伊達政宗はこれらを鎮圧することに成功した。このような情勢の変化によって、はじめは九戸政実についた武将も、徐々に三戸南部信直方に寝返る者もでてきた。葛西・大崎一揆を鎮圧した征伐軍はさらに和賀・稗貫を討ち、いよいよ九戸軍の征伐に進軍してきた。
八月二十三日、豊臣軍と九戸軍の戦闘は征伐軍の姉帯城攻撃からはじまった。九月一日には、九戸城を秀吉軍十万で攻めた。勝敗はわかっていたが、それでも数日間の間持ちこたえた。冬の到来、兵糧難、無駄な兵員の消耗を考慮した征討軍は、軍議の結果、九戸政実に勧告をすることとし、その使者として九戸政実の菩提寺である長興寺の住職をたてた。その勧告状の趣旨は「速やかに降伏すれば、天下に対し逆心のないことを京都に伝え、一門の命を助け、領地をそのままにするように考えてやろう」というものであった。 九戸政実はその降伏状に従い、天正十九年九月四日、降伏して征伐軍の陣中に降った。
しかし、いったん開城すると、講和の条件は無視され、城の中にいたものは全員殺され、この時、浅野長政が生け捕った幹部の妻子もすべて処刑された。ただ七戸家国の妻子だけは特別に命を助けられた。それは、七戸家国の妻子が信直方として抜群の働きをした根城南部八戸政栄の娘であったからである。

(3)七戸城の落城
この「九戸政実の乱」の時、七戸城にはわずかな守備兵は居たと考えられるが、ほとんど空城に等しかったと考えられる。この隙をついて上杉景勝が七戸城を襲い落城させたと伝えられている。七戸城の南側の作田川と和田川は外堀の役割も持っていたと考えられ、その川を挟んだ館野地区に陣城のようなものを築いて、上杉勢が陣を構えていたのではないかとも考えられている。
また、七戸城の北東側には、矢館跡という出城があったが、ここでも畝堀と呼ばれる防御用の堀から鏑矢や鉄槍などが出土しており、激しい激戦の様子が見えてくる。



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本城の南西側にある「西館」の跡。この西側には「角館」跡が、南側には「宝泉館」跡があります。宝泉館跡はつつじ園となっており、シーズンには観光スポットとなるようです。

5 江戸時代

天正十九年の九戸政実の乱で七戸城は落城し、これに組した七戸家国と、その配下の武将たちは滅び、翌年には南部領内にあった四十八の城は、十二城だけが残され、三十六の城は廃城とされた。七戸城も廃城とされ、七戸地方は南部藩主信直の直轄地とされ、その代官として横浜左近が置かれた。その期間は大変短いものであった。
その後まもなく、七戸には、九戸の乱の時に信直の側として働いた浅水城主の弟直勝が選ばれた。第三期の七戸氏の誕生となる。
※今までこの江戸時代に使われた本城部分(現在は柏葉公園として利用されている)だけが七戸城跡であると誤解していた人が多くいたように思う。

(1)七戸隼人正直時
慶長二年(1593)その長男の直時が正式に七戸城主に任じられ、七戸隼人正直時と称し、二千石を賜った。直時の治安は、慶長二年から、正保四年(1647)二月に亡くなるまでの五十年の長きにおよんだ。しかしその勤務の大半は、七戸城主としてよりも、南部藩の高い身分の家老としてのものであった。そのため、家老として盛岡へ出仕えが多かったようで、七戸は直時の伯父七戸縫殿助直次が城代役となって七戸地方の治安維持にあてっていたものと考えられている。直時は大阪の陣などにも出陣し、また寛永二十年(1643)には、閉伊郡山田浦に漂着したオランダ人を捕らえ、江戸幕府から誉められたりもした。直時は正保四年(1647)に盛岡で死亡したが、その遺骸は七戸に運ばれ、瑞龍寺の南部御霊屋に葬られている。

(2)七戸隼人正重信
直時の死後、南部二十七世利直の五男の重信が後を継ぎ、十八年間に渡って七戸を治めた。重信は、元和二年(1616)五月十五日生まれで、正保四年、七戸城主となった時は三十二歳であった。重信は南部の歴代藩主の中でも名君の誉れが高い人であったと伝えられてはいるが、その業績についての史料は極めて少ない。寛文四年(1664)には南部藩第二十九世に抜擢され盛岡藩主となった。重信が盛岡に移った後、七戸氏を名乗った者は何人かいたが、いずれも七戸とは無縁の人で、七戸地方の人が七戸城主としていただく七戸南部家は重信以後存在しなかった。



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本城南西角の水堀

(3)代官政治のはじまり
七戸隼人正重信が盛岡藩主となった後、重信の領地であった七戸地方は、盛岡南部藩の直轄地となり、代官が置かれた。その代官所は明治二年(1869)まで行われ、一貫した代官政治が行われた。重信が盛岡藩主となった同じ年に七戸に代官所が設置された。この時、野辺地にも田名部にも代官所が置かれ、翌年の寛文五年(1665)から野辺地忠左衛門、藤村源兵衛が七戸の代官となり、野辺地の代官も兼ねていた。
七戸代官が野辺地代官を兼ねる方式がしばらく続いたが、元禄四年(1691)から野辺地通りが設けられ、独立の代官が置かれたため廃止された。そして野辺地忠左衛門が七戸代官に専念することになり、七戸在住の西野八左衛門が盛岡支配に置かれ、野辺地代官の職に着いた。
代官は二年任期で二人任命され、半年交代で勤めるのが慣わしであったが、江戸時代後期にはいつのまにか三年前後となり、文化四年(1807)以後はとくに定めなくなる。
代官に任じられる人は、原則として純粋の南部士に限られていたが、はじめの頃は七戸給人が七戸代官に任じられることもあった。
※『姫塚伝説』の中で「現在、柏葉城址七戸代官所跡北西の谷あいに、姫塚がある。」としているが、町教育委員会では、文献史料を調査した限りにおいて「柏葉城址」という固有名詞は散見されない。また、文化庁で指定している文化財名称が「七戸城跡」であることから、少なくとも町教委は七戸城跡と呼ぶようにしている。




所在:青森県上北郡七戸町七戸
評価:★★★★

南部氏の城館の中でも最大規模ともいわれる城域は広大で、本文内に記載した郭のほかにも複数の外郭があり、その中の一つ「貝ノ口」には土塁も残っています。暑さもあって回り切れていないところも多いので、引用文を多用しお茶を濁しておきます。散策マップによるとつつじや菖蒲などの見どころもあり、城の遺構だけでなく季節によっては草花を楽しむこともできそうです。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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