大戸関所 ~国定忠治の関所破り~
- 2018/01/07
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東吾妻町大戸、R406草津街道大戸交差点の脇に大戸関所の跡があります。
大戸関所
この時の探訪の目的は以前に攻略が不完全だった城館の再攻略と、小栗上野介関連の史跡を巡ること。ここ大戸関所も以前手子丸城(第1陣)の項で触れており再訪となるのですが、単独項目で掲載していなかったのでついでに立ち寄りました。
この「御番屋」という建物は以前はなかったような。
往時の様子
大戸関所は信州街道の要点をおさえる重要な関所で、近世初頭の寛永8年(1632)に設置された。信州街道は草津温泉を始めとする湯治客、善光寺参り、北信濃の三侯の廻米や武家商人の荷物、各地の産物の輸送路として、中山道を凌ぐ程の活気を呈したともいわれ、江戸と信濃を結ぶ最短距離として重要な街道であった。別名信州道、草津道、善光寺道、大戸廻りとも呼ばれていた。
大戸関所は元和9年5月(1623)将軍秀忠上洛の時に、要害の此の地を守護したのが始まりといわれる。其の後、寛永7年に幕府目付によって、関所見立の巡検があり、翌8年に正式に関所が設けられた。 中山道の脇往還で碓氷関所の裏固めの意味を持っている。 以後230余年の間、幕府代官の管理の下に運営され、明治元年9月に廃止された。関所は通行手形によって往来の旅人を厳重に取締り、関所破り(関所を避けて山越しなどをした者)は重罪として処刑された記録がある。通行の門限は明六つから暮六つ(午前6時から午後6時)までと定められていた。また要害地域を守る関所付の村として、大戸、荻生、本宿の3ヶ村は関所番人をを出し、警備に当たったり、関所破りを監視するなどの負担を義務づけられ、近隣の11ヵ村は関所普請村に充てられていた。
嘉永3年(1850)12月に関所破りの罪を受け、侠客国定忠治はこの地で処刑された。映画演劇や講談浪曲でも知られる處である。(説明板参照)
所在:群馬県吾妻郡東吾妻町大戸
評価:★☆
ということで改めて掲載。建物が増えていた分評価上乗せ。なおこの近辺には「忠治地蔵」「忠治とまどいの松」といった忠治関連の史跡もあるので、おいおいそれらの紹介も行っていこうかと考えています。
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