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上野三碑 多胡碑

2017年10月 上野三碑めぐり

金井沢碑山上碑の探訪後、最後に向かったのが多胡碑。この碑は上野三碑の一つであると同時に、日本三古碑多賀城碑多胡碑那須国造碑)の一つでもあります。多賀城碑は多賀城を探訪した時に見学しています。那須国造碑についても近いうちに掲載予定。ちなみに上野三碑の知名度は地元高崎でも低く、これまでは知識人階級かマニアにしか知られていないようなシロモノでしたが(*註:今後は啓発活動により徐々に知名度は上昇していくと思われます)、この多胡碑に関してだけは広く群馬県人に知られています。日本三古碑として別格だから?いやいや、そもそも日本三古碑の存在などほとんどの人は知らないでしょう。多胡碑が知られている理由はこれ↓


む
経典 上毛かるた 「む」

この経典により群馬県人の多胡碑認識率は異常なほど高くなっています。ちなみにこの経典の存在は近年県外にも多少知られてきたようで、「群馬県人は全員この経典を諳んじることができる」という話が出ることもありますが、正確には群馬県人の中でも「主に小学生時代にこの経典を奪い合う競技に参加した経験」があるかどうかが重要になってきます。なので中学生以降に群馬に転校・転入してきた人は、その後何十年群馬に居住していようともこの経典を全部暗唱することは難しいでしょうし、逆に小学生時代に群馬在住で普通に地域の子供会の活動に参加していたような子なら、中学以降に他県に転出してその後群馬に戻ってこなくとも半永久的に経典暗唱をすることはできるかと思われます。



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ということでやってきました多胡碑記念館。



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公園内には二基の古墳



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多胡碑記念館書道展 各回最優秀作品展示

「弁官符上」「穂積親王」「郡成給羊」「左中弁正」などなど、選ぶ文字がハイセンス。



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覆屋

グンマ44ヶ所の聖地のうちの一つ。建物についているスイッチを1秒押すと照明点灯、5秒以上の長押しで解説テープ(3分半)が流れます。



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特別史跡 多胡碑 本物

碑文の内容は以下の通り(上野三碑HPより・以下引用同じ)

■読み方

弁官符[おお]す。上野国の片岡郡[こおり]、緑野[みどの]郡、甘良[から]郡并せて三郡[みつのこおり]の内、三百戸を郡となし、羊に給いて多胡郡[たごのこおり]と成せ。
和銅四年三月九日甲寅[きのえとら(こういん)]に宣[の]る。
左中弁・正五位下多治比真人[たじひのまひと]。
太政官・二品穂積親王[にほんほづみのみこ]、左太臣・正二位石上尊[いそのかみのみこと]、右太臣・正二位藤原尊[ふじわらのみこと]。

■現代語訳

朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四(七一一)年三月九日甲寅。左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣正二位藤原(不比等[ふひと])尊。




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この碑は四方から眺めることができます。解説を聞きながら周りをじろじろ眺めるw

碑の現状

笠石[かさいし]・碑身[ひしん]・台石[だいいし]から構成され、笠石は幅95センチ・奥行90センチ・中央厚さ27センチ・軒面厚さ15~17センチで、方形の笠のような形で下部がへこんでいます。

碑身は高さ129センチ・幅69センチ・厚さ62センチの方柱状で上部に低いホゾがあり、この上に笠石が載っています。

牛伏砂岩[うしぶせさがん]といわれる花崗岩質砂岩[かこうがんしつさがん](別名天引石[あまびきいし]・多胡石[たごいし])の転石[てんせき]を成形し、前面の平らな部部に縦書き6行で80字が丸底彫り[まるぞこぼり]されている。台石は第二次大戦後、コンクリート製に造り替えられました。




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多胡碑は、奈良時代初めの和銅[わどう]4(711)年に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑です。

建郡に際しては、「羊[ひつじ]」という渡来人[とらいじん]とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ、碑の後段には当時の政府首脳の名を挙げて権威付けをはかっています。

多胡郡の範囲は、現在の高崎市山名町から吉井町一帯で、かつて緑野屯倉[みどののみやけ]や佐野屯倉[さののみやけ]というヤマト政権の直轄地が設置されていた領域と重なります。そのため、当時は先進的な渡来系技術が導入され、窯業[ようぎょう]、布生産、石材や木材の産出などが盛んな手工業地帯になっていました。

このことから、多胡郡建郡は当時の政府による生産拠点のとりまとめと、それに伴う郡の区割りの見直しが目的であったと考えられます。

碑身[ひしん]に笠石[かさいし]をのせる形状や楷書体[かいしょたい]の文字には、当時最先端の中国文化の影響がみられますが、一方で18世紀に多胡碑の拓本が朝鮮通信使を通して中国に渡り、書の手本として中国の書家に影響を与えました。このように、多胡碑は東アジアの文化交流の様子を示す重要な資料です。


タゴピーかわいい!!



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多胡碑記の碑

碑は根府川石。碑文の撰と篆額は後の文学博士、男爵 細川潤次郎(元老院議官)である。
明治12年冬、彼が群馬県内で上野三碑を巡覧した。その際多胡碑の考証や三碑の状態も記録に残した。
書は当代随一の書家 日下部鳴鶴の筆。隷書体で優れた碑文としてたたえられている。碑文は早くできていたが、経費の関係で、堀越文右衛門富美により大正5年(1916)1月に建立された。(説明板参照)


このほか周囲には「羊さまの榎」や揖取素彦の歌碑などがあります。



多胡碑

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少し難解ですが歴史ミステリーとして面白いです。
北円堂は右太臣の祀られている古都奈良・興福寺の八角円堂です。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日欠かさず生野菜摂取中。
© 2010 城館探訪記

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