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清水城 ~佐野氏の有力支城~

2015年冬 足利・佐野探訪

吉水陣屋のすぐ西側にある興聖寺一帯に築かれていたのが清水城。寺の名前を取って興聖寺城とも呼ばれています。



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興聖寺正門



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標柱&説明板で完璧

『栃木県誌』などによれば、安貞2年(1228)、佐野国綱が岩崎義基のために築いたとある。後、子孫が代々居住したが、永正年間(1504~21)、義基12代の孫、左馬介重長が岩崎城へ移り、大永元年(1521)、佐野秀綱の居城となる。慶長19年(1614)、佐野氏改易と共に廃城となる。寛永12年(1635)、興聖寺が田之入(田之入町)からこの地に移され、現在に至っている。
城跡の規模は、東西116m、南北133mのほぼ方形である。四方に土塁と、その外側に堀の遺構が残る。古絵図によると、大規模な城の本丸がこの城跡に当る。この城跡は本丸、北二の丸、南ニの丸、三の丸からなり、それぞれ曲輪が水堀で囲まれていた。さらに周辺には侍屋敷があって、有力な家臣が配置されていた。(説明板参照)


清水御所」「清水ノ城」「吉水の城」と記される文書もあります。城郭大系では興聖寺城の表記となっていますが、上記の通り興聖寺がこの地に移されたのは廃城後のことであり、城の呼称としては清水城のほうが妥当であると思われます。



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門の部分はちょっとした虎口風の造作。東側~北側にかけて土塁で囲われているのがすぐに目に入ります。



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興聖寺参道と本殿



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寺の背後(西側)にも土塁。土塁はそのまま南側に繋がっています。四方に土塁が残されている平地城館はなかなかに貴重。



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四方の土塁の外側には堀跡が残っています。左写真は城の正門手前にあった歴史を感じさせるお堂。

以下佐野市HPより抜粋。

清水城跡は、現在の吉水小学校の南東にある城跡です。築城時期は鎌倉時代とされ、それ以後、家臣の岩崎氏や佐野家の一族が居住し、佐野氏の改易により廃城となりました。現在の興聖寺周辺は本丸跡とされ、往時の土塁や曲輪の跡が残り、市の史跡に指定されています。

この城は、唐沢山城の大手口であった西の山麓部から、秋山川を渡った西岸に位置する城でした。今に残る城の痕跡はおよそ120m四方ですが、古地図や史料の読み解きから、ある時期には最大で約800m四方の構えを持つ大規模なものであった可能性が出てきました。区画整理が実施される前の吉水地区の地図に古地図、小字名の情報を照合してゆくと、多くの曲輪や寺院を持ち、侍屋敷や職人の居住地を配置した城の様子が、驚くほど近代以降の地形と一致することが分かります。本城である唐沢山城の西方面への最終防衛線を担う拠点だったということでしょうか。




所在:栃木県佐野市吉水町
評価:★★☆

土塁がよく残っていますが、藪化しているところもあり遺構観察が目的なら冬場の登城推奨。説明板や佐野市HPのとおり、この土塁に囲まれている興聖寺部分はあくまで主郭部分であり、往時にはその外側に曲輪が連なる大規模な平地城館であった模様です。吉水陣屋もこの清水城の外郭の一角に築かれたといいます。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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