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椿田城 ~赤松福地家の守護神・十一面観音~

2015年冬 足利・佐野探訪

中里城から佐野市船津川町にある椿田城へ。



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R50足利バイパス~佐野バイパス~r7を経由し、県道から入ったところにある表示。表示通りに進むと周囲を水路に囲まれた城跡に到着。敷地内は現在も子孫の方が暮らしているとのこと。



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標柱&城址碑


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永禄3年(1560)唐沢山城の出城として築かれ、川越・忍・館林方面に対する抑えとして、代々福地氏が城主となっていた。慶長19年(1614)佐野氏改易と共に廃城となり、以後福地氏が名主・郷士として住んできた。やや方形の宅地の外側に幅2.6~2.8m、深さ約1mの水濠が残っている。(説明板参照)




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赤松福地家守護神 「椿田十一面観音福地堂」の由来

赤松福地家代々の守護神として伝わる十一面観音は一寸六分(約5.3センチ)の黄金造りのもので、遠祖具平親王(人皇第62代村上天皇第7皇子)より季房(赤松氏祖)則景、能久(福知山城主、福地家祖)と受けつがれた。何時の頃よりか、ご本尊を兜の前立に納め、数多の合戦に出陣した。

第7代丹波守直久は、西国の乱(応永4年5月18日)に際し、備中戸岩の城攻めの時、敵兵の放った矢を兜に受けたけれど、矢の根が折れて奥まで貫通せず無事であった。

また、第20代出羽守寧久(後、昌寧と改む)は、天正11年正月朔の未明、唐沢山城主佐野宗綱公に従って彦馬須花坂の合戦に臨んだ時、敵兵の放った鉄砲の弾丸が兜に当たったが、弾丸は微塵に砕け散っただけで、少しの傷も受けなかったという。これも十一面観音の神霊のご加護によるものと語り伝えられている。因みに寧久の法名は霊性院殿一弾全無大居士になっている。

このご本尊を厨子に納め、赤松福地一族の守護神として堂宇を応仁年間(1467~8)に建立したのが、椿田十一面観音福地堂である。(説明板参照)




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敷地の南側から西側へ。東側の入口以外周囲をすべて水路で囲われているので、やや大回しなければなりません。敷地南西隅の水路外には椿田十一面観音福地堂が昔建っていた場所があります。右写真背後に見える堤防の先には渡良瀬川の支流才川が流れています。



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西側水路

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西側水路                 北側水路

明確な水堀跡で、普通に小沢程度の規模がありますが、これでも才川の河川改修の際に幅が縮小されたものだといいます。



所在:栃木県佐野市船津川町
評価:★★

標柱等の表示物が思いっきり敷地内にあるので、写真を撮るのにやや気が引けます(家の方の姿が見えれば声をかけられるのですが・・・)。土塁等は明確には残っておらず、現状周囲の堀跡が唯一の遺構ですが、これが現在も水路・水堀としてほぼ全域を取り巻いているのはなかなか見事です。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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