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大友館 ~豊後守護・大友刑部氏時の館~

2015年冬、古仲城の次に向かったのが川場村にある大友館(別名川場館)。尾瀬高校のところからr64奥利根ゆけむり街道で山越えし川場村へ。川場村役場の北方にある桂昌寺周辺が館跡なのでそこを目指します。



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桂昌寺。境内には「かんのん山」という比高1.5mほどの土盛があり、仏足石が置かれていたりします。



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表示物がしっかり設置されていたのはうれしい。事前情報では何も設置されていないような感じでしたので。「川場かるた」、久しぶりに見たな。前回は同じ川場村の天神城で見つけたんだっけ。

大友氏というと豊後守護の大友氏が有名ですが、この館の大友氏とは関係ないだろうと思いきや、思いっきり関連しているようです。そもそも鎌倉時代初期の御家人にして大友氏の初代・大友能直の母はこの地で生まれた利根姫であり、そのゆかりで川場村周辺に成立した「利根荘」を領地にしたといいます。やがて大友氏は豊後国(大分県)の守護を命ぜられると、鎌倉執権北条氏に滅ぼされた相模国の名族・三浦氏の落人に沼田氏を名乗らせて利根庄の管理を委任し(cf:荘田城)、九州に下って後年のキリシタン大名・大友宗麟などの祖となりました。大友氏は南北朝時代には北朝方に属して各地で戦い、8代氏時は1363年に九州で南朝方の菊池氏と戦って敗れると、先祖発祥の地に戻って川場村谷地に広大な「大友館」を構えますが、1368年に南朝方の新田義宗(義貞の3男)に敗れて館は焼失します。後にその館跡には、晩年を館で過ごした氏時夫妻の墓と伝わる一対の石塔を守るために建長寺派の「桂昌寺」が建てられた・・・というのがこの地に残る伝承です。

『群馬県古城塁址の研究』にも「正平18年(1363)正月、大友刑部氏時がこの館を築いたとされるが、その5年後の同23年(1368)に新田義宗の襲撃を受け、氏時は桜川原で討死した」と記されています。しかし当時氏時は小弐頼尚と共に北九州で菊池氏と抗争を続けていた頃であるとして、この説に疑問も提示しています。 



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当時の遺構とは直結しないかもしれませんが、周囲を川や水路に囲まれ雰囲気あります。“女啄木”とも称された郷土の歌人「江口きち」の墓や歌碑などもあります。



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桂昌寺東側。ちょうど館跡の東端部分と思われるところで、道路が堀跡のように思えなくもありません。



所在:群馬県利根郡川場村谷地
評価:★☆

表示物があったので評価プラス。こういった伝承の残る場所はたとえ遺構が残ってなくともやはり惹かれます。なお『城郭体系』には「石塁が残る」とありますが、現在では失われてしまったようです。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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