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古仲城 ~上州最奥の城~

2015年冬、寄居山城の次に向かったのが古仲城。『日本城郭大系』では「小中城」の表記で掲載されています。片品川上流のかなり奥まった場所に位置し、大系には「これより上流には城館跡は存在しない」とまで書かれています。

R401で片品温泉を越え、古仲地区付近で国道から降り片品川西岸を北上。大圓寺を過ぎてさらに川に沿って細道を進んだところに城への表示があります。



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案内表示。車は周辺の余白に駐車可能。

ちなみに私はみなかみ町の石倉城の探訪記で「城址碑がある城館としては県内最北」と記載し、タイトルも「上州最北の城」を使ってしまっていますが、実際のところはこの古仲城のほうがより北側に位置し、城の表示物も設置されています。なのでこちらを最北の城として修正してもいいのですが、直すのが面倒なので過去記事はそのままとし、こちらの城は「上州最奥の城」とさせてもらいます。この表現のほうがむしろインパクトあり。



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地元の方が整備してくださったであろう遊歩道。この道がないと冬場とはいえ藪を突っ切る必要があるので大変ありがたい。ただこの辺りは冬場かなりの積雪となるので、木製の通路は劣化が早いと思われます(片品村では通常12月中旬~4月初旬まで雪が残るというが、探訪した年は雪が非常に少なかった)。沢を渡るときなど若干のスリルがあり、それがまた楽しい。

そのあたりを表現した動画


動画①



底が抜けた時は一瞬何が起きたかわからなかった



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底が抜けた現場



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沢を越えてすぐに現れる堀切。数mの深さがありこの城で最大の見どころと思われます。現状斜面に直接階段が取り付けられていますが、大系の図を見ると本来の虎口は北東側(堀切の向こう側)についていたようです。

ここを登ると城内で、大系では最初の堀切のほかに3本の大きな堀切が描かれていますが、現況は仕切り線程度の土塁が何本か入っている程度でいまいち不明瞭。後世に埋められてしまったのかもしれません。



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土塁状の高まりが郭の外周に残っているのでそれに沿って奥へ。西側には先ほど越えた沢が深い天然の堀を形成しています。その先には片品川の断崖。これはヒェ~レベル。


動画②






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主郭の先端、周囲を取り巻く土塁の延長線上に土壇状の高まりがあります。



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高まりの最高所に設置された城址碑。こういったものがあるのとないのとでは達成度が段違いですね。傍には古い時代の石祠もあります。ここは南側は越本から鎌田方面まで、北側は戸倉方面が見渡せる場所で、戦国期には狼煙台として使われたという話があります。



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周囲は断崖。張られているロープより外に出れば何が起こるかわかりません。写真では灌木があるので転落しても上手く引っかかって助かりそうに見えるし、外からもよじ登ってこれそうに感じるかもしれませんが、実際はこの木が生えている部分のすぐ下は岩盤の絶壁となっており、 登攀は不可能。



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先端部から見た主郭内部。意外と広さあり。



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城の南方にある大圓寺


大系によると古仲城の城主は小中(古仲)彦兵衛尉で、長尾政虎の関東進出に際してはこれに従い、永禄12年沼田氏没落後の沼田城において諸事の奉行を務めたといいます。謙信が天正5年に記した旗下80余将の中にも彦兵衛は名を連ねていますが、その後の小中氏の消息は不明となっています。

また伝承では、古仲城は尾瀬氏が古仲に氏寺(現在の大園寺の前身)を建てた大同2年(807)頃から尾瀬氏の居城となっており、尾瀬氏の一族は正中2年(1325)に尾瀬兵衛が北条範貞に滅ぼされ、ついに尾瀬氏は絶えたと伝わります。
 
別の伝承では、仁安2年(1167ころ)に高倉宮以仁王が平家討伐の陰謀を計画したことが発覚し、六条天皇に都を追われて会津に向かう途中に家臣の尾瀬中納言藤原頼実と源頼政とともに古仲城を根拠地にしたとも伝えられています。

永禄12年(1569)には沼田万鬼斉がわが子弥七郎を殺害し、弥七郎の家臣に弔い合戦を起こされて、戦いながら会津へ向かう折に逗留したという話も伝わります。沼田氏が滅亡後は沼田領内は上杉謙信の領地となり、その家臣小中彦兵衛尉が居城したとされ、これは大系の記載と一致します。



所在:群馬県利根郡片品村古仲
評価:★★☆

三方絶壁、一方虎口の極陰の縄。構造的には伊香保の下小屋城とよく類似しています。防御は極めて堅いですが守備側も脱出不能なので、様々な伝承はありますが、実際の用途としては籠城して長期戦もいとわずという使われ方よりも、街道監視の城、あるいは地衆の緊急時の隠れ城といった用途のほうが強めだったのではないかと感じます。ちなみに伝承で登場の尾瀬氏は尾瀬の牛首にも築城したという伝承があり、それが確かなら上州最北かつ最奥の城は間違いなくその城になります。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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