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仏坂古戦場

「伝 小野但馬守の供養塔」からR257を北上して伊平(井平)地区へ。



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いだいら観光マップ

しばし国道を道なりに北上し、伊平橋で川を渡って左カーブをした先に仏坂古戦場へ向かう道があります。



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その入口。写真の大きな看板が目印。「戦国史跡 ふろんぼ様」って一体何でしょうか。行ってみましょう。

細い山道を500mほど進むと中腹にある中駐車場に出ます。



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案内図                天保の道標

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仏坂の戦いの画

駐車場には案内図や道標、そして仏坂の戦いも絵図が掲示されています。案内図によるとここからさらに500mほどで「仏坂十一面観音堂」に至り、その途中に例の「ぶろんぼ様」があるようです。道が極めて狭く駐車スペースの不安もありましたが、気配からして通行量はほとんどなさそうだったのでこのまま車で奥まで行ってみます。車のすれ違いが不安な方はここに車を停めて徒歩で向かうほうが安全でしょう。

途中「獅子岩」の表示のある岩をを眺めつつ急勾配の坂道を登るとすぐに道端に「ふろんぼ様」の表示が現れます。その前後にちょっとだけ駐車スペースらしき広がりが設置されているのですが、そこに停めるのは手間なほどぎりぎりの狭さ。スルーして少し先の路肩がすれ違い可能なほどの幅だったのでそこに停車してふろんぼ様へ向かいます。



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ふろんぼ様

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ふろんぼ様

ふろんぼは古坊か古い墓の訛ったものか、古来からふろんぼと呼ばれてきた。元亀3年10月22日武田信玄が遠江に侵攻した折 山県三郎兵江昌景の率いる一隊は東三河から山吉田鈴木岩見守重好を攻めたが満光寺朝堂玄賀和尚の和議で岩見守は柿本城山吉田城)を開き一族と共に三遠国境を越え伊平の鈴木出雲守の守る小屋の砦井平城)に引退いたがこれを追って来た山県勢と仏坂で激戦を交えている。
この戦いで井伊飛騨守直成(井平領主)は鉄砲に的り戦死、岩見守一族鈴木権蔵重俊も頬当の下菱縫に鉄砲を受け討死した(享年22才)。
この戦で討死した井伊飛騨守や鈴木権蔵重俊を始めとして多くの戦国の武将の菩提をこの地に葬ったものと伝えている。(説明板参照)


井平飛騨守直成の墓(中央の宝篋印塔)

元亀3年(1572)徳川軍と武田軍との戦いである三方原合戦の前哨戦と云われる仏坂の戦いにより、井平直成は銃弾が当り、88名の武将と共に戦死し、井平軍は敗北した。この戦いで井平城井平氏居館、多くの民家も焼かれ、井平氏も一時途絶えた。(説明板参照)


車に戻り少し山道を登ると標柱と新たな説明板発見。



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仏坂古戦場

元亀3年(1572)に武田信玄が遠江に侵攻し、三方ヶ原合戦の前哨戦ともいうべき戦いがこの地で展開しました。遠江に侵攻する際、武田方は軍勢を信玄率いる本体と別働隊に分けて侵攻し、その内、山県昌景率いる別働隊と徳川方の井伊家が戦いました。徳川方は敗北し、井伊家配下の井平城も落城し、しばらくはこの地域が武田の支配下となりました。
この地に残る「ふろんぼ様」という石塔群は、この戦いで討死した88名を供養するためのものと伝わります。国道257号が開通する以前は、この旧道が引佐と三河を結ぶ街道でした。(説明板参照)


大河ドラマでは見事にカットになってしまいましたが、武田軍の中でも精強の山県隊を相手にわずかな手勢で立ち向かった井平勢のことは記憶にとどめておきたいところです。


<仏坂古戦場>
『井伊直虎GUIDE BOOK』No.41。達成状況【21/57】
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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