FC2ブログ

記事一覧

三方ヶ原古戦場

堀江陣屋から向かったのが三方ヶ原古戦場。戦国時代でも指折りの有名な戦いですが、実は三方ヶ原の戦いにおける主戦場は、三方原台地であるということ以外、詳しくわかっていません。現在三方原の一角にある三方原墓園に古戦場の碑が設置されています。



IMG_7165.jpg
三方ヶ原古戦場碑



IMG_7170s.jpg

上洛を目指した武田信玄は元亀3年(1572)10月3日に2万5000の軍勢を率いて甲府を出発、同年12月22日には浜松城の北側に広がる三方原に進出してきた。徳川家康は家臣の反対を押し切って1万1000(徳川軍8000と織田信長の援軍3000)の軍勢を率いて浜松城を出発、武田信玄の軍に迫った。徳川軍はいつでも攻撃できるような鶴翼の形をとり、家康の陣形の確認した武田信玄は魚鱗の陣形をとった。戦いは日暮れに近いころ、ここ三方原の根洗付近で開始されたが、徳川軍は武田軍の前に惨敗、総崩れとなって浜松城に退却した。この戦いで敗れた家康は多くの教訓を得た。「浜松市史」ではこれをつぎのように記している。「この敗戦によって弾力のある積極性の重要さを身をもって体験した。また、野戦のかけひき、短時間で勝敗を決するという哲理を学びとったのである。家康が野戦の名将となったのは、三方原の敗戦によってえた経験が大きく作用している。」(説明板参照)


説明板には武田軍本隊の動き(北・東から)と別動隊である山県昌景隊の動きが記されています。大河ドラマでは山県隊の動きが省略されてしまったようですね。

以下wikiの記述も載せておきます。

当初、徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、籠城戦に備えていた。一方の武田軍は、二俣城攻略から3日後の12月22日に二俣城を発すると、遠州平野内を西進する。これは浜名湖に突き出た庄内半島の先端に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を標的とするような進軍であり、武田軍は浜松城を素通りしてその先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた。

これを知った家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出た。そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は鶴翼の陣をとり両軍の戦闘が開始された。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍は武田軍に撃破され、日没までのわずか2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死して壊走する。

武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者2,000人のほか、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真といった有力な家臣をはじめ、先の二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や、家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田軍の平手汎秀といった武将を失った。このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや本多忠勝などの武将の防戦により、家康本人を討ち取ることはできなかった。

武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。この敗走は後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行う。そして湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。この心の余裕を取り戻した家康の姿を見て将兵は皆安堵したとされる。浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げる。

同夜、一矢報いようと考えた家康は大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城の北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させる(犀ヶ崖の戦い)。この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、崖に誘き寄せるために徳川軍が崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落したなどの策を講じ、その結果、多数の死傷者を出したという。

ただし、「犀ヶ崖の戦い」は徳川幕府によって編纂された史料が初出である。「幅100mの崖に短時間で布を渡した」、「十数丁の鉄砲と100人の兵で歴戦の武田勢3万を狼狽させた」、「武田勢は谷風になびく布を橋と誤認した」という、荒唐無稽な逸話である。また、戦死者数も書籍がどちらの側に立っているかによって差があり、『織田軍記』では徳川勢535人、甲州勢409人と互角に近い数字になっている。




IMG_7172.jpg  
IMG_7173.jpg IMG_7174.jpg
二代目根洗松

古戦場碑の場所からR257を北上すると「根洗」の交差点に出ますが、その手前に「根洗松」の表示があります。脇道に入るとすぐにその松があります。今の松は二代目らしい。

根洗松は、三方原の北はづれにそびえる古松である。雨が降るたびに根が洗われ根洗松と呼ばれるようになった。鳳来寺街道に沿っているので、むかしから目じるしとなって旅人に親しまれたばかりでなく、この地に住みついた人たちにとっては心の支えであった。里人、この古松の常に変わらぬ緑を仰ぎ、梢をわたる松風を励ましと聞いて、朝に夕になりわいにいそしんできた。そしてようやく豊かに人家も増し、根洗町と名つけることとなった。今そのいわれを石に彫り、いつまでも伝えるわけである。(石碑参照)




IMG_7176.jpg
祝田坂への旧道

この地から北へ向かうと祝田の坂になります。三方ヶ原の戦い当時の祝田坂は薄暗く狭い坂道で、今も一部が旧道として残っています。私は旧道でなく国道を車で通過しましたが、この祝田坂部分はかなりの下り坂となっていることを実感しました。

徳川軍は武田軍が祝田坂を下るところを背後から一気に攻めようとしました。決してヤケクソになって玉砕覚悟の突撃をしたわけではなく、地の利を生かした急襲で桶狭間のような逆転劇をもくろんでいたのかもしれません。しかしその坂の手前で武田軍は万全の迎撃態勢を敷いて布陣。結果は上記の通りとなったわけです。

最後にwikiの逸話から。

・現在の温暖な浜松周辺では考えられないが、合戦当時雪が降っていた。
・浜松市内の地名の「小豆餅」(中区の町名)および「銭取」(同区和合町の地名)は、敗走中の家康が途中で立ち寄った茶屋の老婆より小豆餅を買い求めて食べていたが、そのとき武田軍が迫ってきたので代金を払わず逃げ、後から老婆が追いかけて家康から餅代を徴収したという話がその由来として知られているが出典は明確でなく、それほど古くない時代に筋立てが成立した伝承であると考えられる。ただし命からがら逃走していた家康がいくら空腹でも悠長に茶屋に寄ったとは考えにくく、騎乗していた家康が徒歩の老婆に追いつかれたというのもおかしいため、信憑性は薄い。上記の地名も、「小豆餅」は合戦での死者を弔うためにこの地に小豆餅を供えたことに由来し、「銭取」は山賊が通行人から銭を取ったという話に由来するという説がある。また当時この地域には、茶屋どころか民家さえ存在していないと言われている。
・敗走中の家康は途中で腹が減り、付近の農家に食べ物を求めた。家の者は粥を提供したため、後に家康はこの農民に「小粥(おがい)」という名字を授けて庄屋にした。また、家康が武田軍の追跡を逃れるため浜松八幡宮の洞窟に一時身を隠したが、家康の乗馬の白い尾が洞窟の外に出ていた。それに気づいた付近の農民が家康に教えたため、家康は尾を隠して上手く逃げおおせた。後に家康はこの農民に「白尾(しらお)」という名字を授けた。
・犀ヶ崖の戦いの後、犀ヶ崖の底から転落死した武田兵の霊のうめき声が聞こえて来るようになり人々が恐ろしがった。そこで家康は僧侶の宗円を招き武田兵の霊を弔うための供養を行い、それ以後うめき声は聞こえなくなった。この供養が遠州大念仏の起源であるという。また、犀ヶ崖の戦いがあったとされる場所は、その伝承によって「布橋」と言う地名になった。浜松には「布橋の雪」という銘菓がある。
・敗走中の家康が恐怖のあまり脱糞し、浜松城に入城した後に家臣から脱糞した旨を咎められて「これは味噌だ」と家臣に言い放ったという逸話がよく知られているが、この話は出典となる史料が判明していない。類似した話が記述されている『三河後風土記』では一言坂の戦い後の話とされている。
・門松の習慣は平安時代からあったが、現在一般的となっている竹をななめに切って並べる「そぎ」にしたのは家康で、竹を武田家になぞらえて「(三方ヶ原では大敗したが)次は斬る」との意味合いを込めたとされる。
・撤退戦に際して、家康は騎射で武田勢数名を撃ち倒したと『信長公記』にある。
・敗北した家康が浜松城に帰還した際、夜陰に乗じての帰還で供回りも少なかったことから殿の帰城とは信じて貰えず、しばらく自城に入れなかった。
・家康が浜松城に逃げ帰った後、酒井忠次が城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞し、武田方には伏兵のあることを疑わせて引き返させたとする「酒井の太鼓」の話は、河竹黙阿弥の『太鼓音知勇三略』(後に新歌舞伎十八番の一編となる)が1873年(明治6年)3月に村山座で初演されたのが人気を博したことで知られるようになったもので、『三河後風土記』が典拠とされることがあるが同書にそのような記述はなく、城門を開け放しにした話を脚色したと考えられる。
・前哨戦では磐田・見付町の町衆が徳川軍に味方して武田軍に対抗し、そのおかげで家康からいくつかの特権を与えられたという(小和田哲男「戦国の群像」)。史料によると内容は3つである。 「町衆が狼煙をあげ、武田軍の動きを浜松城の家康に知らせた」「夜討ちをかけた武田勢が引き上げるところを、省光寺の裏山にひそんでいた町衆が待ち伏せして襲い、何人かを討ち取った」「浅羽の内芝原に信玄が陣取った際、本多忠勝と内藤昌成が見付東坂の上まで物見に出たのだが、信玄隊が急に襲いかかってきたので、町衆は自ら町に火を掛け、本多隊の撤退を助けた」
・敗戦後、家康はしばらく夢でうなされた。しばしばこの戦で死ぬ夢を見たという。
・天正8年(1580年)に佐久間信盛が織田家から追放された際、信長は信盛が三方ヶ原においてほとんど戦わず、平手汎秀を見殺しにして退却した事を追放の理由の一つとして挙げている。
・家康はこの戦で人生初の恐怖と大きなトラウマをもらったのは有名だが、同時に武田信玄及び武田軍の武将達に尊敬の念を抱くようになったという説もある。武田氏滅亡後、家康が武田の残党を抱えたのも、山県昌景や小幡信貞の赤備えを井伊直政に継がせた(井伊の赤備え)のも敬意の表れだという。
・このほかにも様々な俗説があり、家康が敗走中に部下のとった坊主首を信玄を討ち取ったと言いふらさせた、徳川勢の戦死者が一人も背中を見せて死んでいなかった、信玄が米倉丹後守に火牛の計を授けた、などがある。小説家の佐藤春夫は、『三河後風土記』などの内容のほか、講釈師が張扇でたたき出した創作などもあるだろうと述べている。


<三方ヶ原古戦場>
『井伊直虎GUIDE BOOK』No.40。達成状況【18/57】

関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

10 | 2019/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: