fc2ブログ

記事一覧

二俣城 ~岡崎次郎三郎信康自刃の地~

直虎紀行part.2の旅2日目、光明城の次に訪れたのがここ二俣城



IMG_6819s.jpg
駐車場にあった各種説明板のうちの一つ・「北遠の山城」

前日登城した高根城や、本日これまでに攻城した犬居城光明城、さらには次の予定地である鳥羽山城といった城も表示されています。・・・あ、すみません。実際の登城順通りに掲載していませんけど、もういまさらいいですよね。掲載しやすいやつからどんどん行きます。



IMG_6820s.jpg IMG_6821.jpg
各種説明板

二俣城といえば、武田と徳川の激しい攻防戦の舞台となったことで知られています。以下引用はwikiより。

二俣の地は、天竜川と二俣川との合流点にあり、水運に恵まれた地であった。加えて、北にある信濃側から見れば山間部から遠州平野への入り口といえる場所に位置し、南の道を気賀まで抜ければ、東海道の脇街道である本坂通(姫街道)が東西に走り、そこからさらに下れば浜名湖の東側(現在の浜松市中心部)に出るなど、街道上の要衝といえる位置にあった。

この二俣への築城は、戦国時代初頭、遠江を巡って今川氏と斯波氏が争った際に、今川氏が拠点とするために城館を築いたのがその初めといわれる。ただし、それは後のように山城ではなく、北東の平坦地にあったと考えられている(現在の浜松市天竜支所周辺。笹岡古城の名が残る)。その後今川氏は当主義元の勢力下で大きく勢力を伸張、その被官松井氏(当主は松井宗信か)が城の位置を変更、天竜川を見下ろす小山に築城したといわれるが確実な史料はない。宗信は永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで当主義元とともに討死するが、その子松井宗恒も跡を継いだ今川氏真に重用され、3千貫を与えられた。ところが永禄12年(1569年)、今川氏は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康の挟撃にあって滅亡した。松井氏は武田信玄への従属の道を選ぶが、信玄と敵対した徳川家康に攻撃され、降伏した。家康は二俣城に鵜殿氏長を城代として置き、武田勢の攻撃の危険が高まると譜代の家臣である中根正照に城代を交代させた。



元亀3年(1572年)10月3日、上洛を目指す武田信玄は、徳川家康の所領である遠江に侵攻した。信玄は遠江における徳川方の諸城を東西に分断するため、10月13日には腹心の馬場信春に一軍を預けて只来城強調文を落とさせた。自らも2万2000の軍勢を率いて天方城一宮城飯田城格和城向笠城などをわずか1日で全て落とした。10月15日には、匂坂城を攻略した。これにより、掛川城高天神城は孤立し、家康方は浜松城にある城兵だけで武田軍と戦うことを余儀なくされたのである。その結果、10月14日に行われた一言坂の戦いで、家康は信玄の前に大敗を喫した。

一方、家康を破った信玄は、10月16日に二俣城を包囲した。二俣城浜松城掛川城高天神城のちょうど中間地点に位置する遠江の諸城の中でも特に重要な拠点であった。武田軍が補給路を確保するためにも、徳川軍の連絡網を断ち切るためにも、この城は落としておく必要があったのである。

二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵上に築かれた城で、この川が文字通り天然の堀を成していた堅城であった。城将は中根正照、副将は青木貞治であり、城兵の数は1200人ほどであった。一方の武田軍は馬場信春軍と信玄軍が合流して、2万7000人の大軍であり、力攻めも不可能ではなかった。

正照は家康、そしてその同盟者である織田信長の後詰(援軍)を期待して、信玄の降伏勧告を拒否する。このため10月18日から武田軍の攻撃が開始された。しかし二俣城の攻め口は、北東の大手口しかない。しかもその大手口は急な坂道になっており、攻め上ろうとする武田軍の進行速度は遅く、そのために次々と矢弾の餌食となっていった。このため、武田軍は二俣城を攻めあぐんだ。

11月、信玄の命令を受けて家康の所領である三河に侵攻していた山県昌景が信玄に合流した。しかし、武田軍の攻撃に進展はなく、そうこうしているうちに12月に入った。

信玄は力攻めでは二俣城を落とすことは無理と判断し、水の手を絶つ方法を考えた。二俣城には井戸が無く、天竜川沿いの断崖に井楼を設けて、釣瓶で水を汲み上げていたのである。そこで信玄は大量の筏を作らせて天竜川の上流から流させ、筏を井楼の柱に激突させて破壊するという策略を実行に移したのである。この作戦は見事に成功し、大量の筏に激突された井楼の柱はへし折れて崩れ落ちてしまい、水の手は絶たれた。

信玄は水の手を絶った上で、開城を迫った。中根正照は万一に備えて桶に雨水を貯めるなどの工夫もしていたのだが、1200人もの人数にいつまでも持つわけがなく、運良く雨が降り続けるわけもない。そのため、正照は信玄に降伏・開城して浜松城に落ちていった。こうして、二俣城は信玄の手に落ちたのである。

二俣城攻略は、武田氏と徳川氏の優劣を決定的なものとした。これにより、日和見を決め込んでいた飯尾氏・神尾氏・奥山氏・天野氏・貫名氏などの地侍のほとんどが信玄に従うことを表明したからである。

これにより信玄の次の標的は、家康の居城・浜松城となり、12月22日の三方ヶ原の戦いへと突入していくことになる。



二俣城の落城により武田軍は遠州平野内に入り、浜松を無視するが如くそのまま西進、これに業を煮やした家康が浜松城から出撃し、12月23日に三方ヶ原の戦いで両軍は激突した。武田軍は大勝し、12月28日には信玄は越前の戦国大名・朝倉義景に戦勝を報告するとともに織田信長を討つよう出陣の催促の手紙を送っている(『伊能文書』)。この中に二俣城が修築中であることも記載されている。しかし、上洛そのものはまもなく信玄が発病したために中止となり、信玄は帰国中に死亡した。

その後二俣城には、信濃先方衆の依田信蕃が城主として入った。家康は信玄死後から直ちに遠江・三河にある武田の諸城を攻撃した。二俣城にも元亀4年(1573年)6月に攻勢をかけたがこのときは撤退している。一方で逆に遠江東部の高天神城が武田の新当主・勝頼によって落城させられるなど、徳川氏にとっては厳しい状況が続いていた。ところが天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗した。家康は直ちに反攻を開始、6月には二俣城にも軍を出し、付城(前線基地)を二俣城の隣の小峰である鳥羽山ほか5箇所に作って包囲した。同年8月14日、家康は遠江の東端にある諏訪原城を落城させたが、二俣城の城兵はよく戦い、なかなか落城しなかった。しかし同年12月24日、城兵の安全な退去を条件についに開城、城代依田信蕃も駿河田中城に撤退した。家康は城主として重臣の中でも特に武勇名高い大久保忠世を置き、合わせて万全な城の修築工事を行わせた。武田軍はその後たびたび攻撃をかけるが、ついに落城しなかった。



その後はそのまま大久保忠世が城主を務めたが、本能寺の変後の家康の勢力伸張に伴い忠世自身が信州惣奉行として小諸城に在番することが多く、二俣城にはあまり在城していなかった。天正18年(1590年)、家康の関東転出に伴い堀尾吉晴が浜松城に入り、二俣城はその支城となったが、慶長5年(1600年)に堀尾氏が出雲に転封すると廃城となった。その後も城としての役割を果たすことはなかったが、明治29年(1896年)、日清戦争で戦死した地元有志を弔うことを目的で北曲輪跡に旭ヶ丘神社が建立され、日露戦争の戦死者なども合祀された。太平洋戦争後には城一帯は地元の公園として整備され、現在に至っている。



そして二俣城はもう一つ、家康の長男・信康の切腹の地としても知られています。



IMG_6871s.jpg
『あの織田信長が最も恐れた若武者 岡崎次郎三郎信康』

二俣城といえば、家康の長男・松平信康が若くして父に切腹させられた悲劇の地としても知られる。天正7年(1579年)7月、家康の同盟者・織田信長に家康の正妻・築山御前と長男・信康が武田方に内通したとの報がもたらされた。この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。家康は悩んだ末まず築山殿を殺害、さらに9月15日かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。このとき服部半蔵が介錯を務めたが、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの話が残る。(以上が旧来、広く流布されてきた説話だったが、近年では信康が切腹に追い込まれた背景には家康や家臣団との対立があったためではないかという説も強くなっている。)信康は時に享年21。信康の遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られた。翌年には家康によって同院に廟と位牌堂が建立され、その後家康が詣でた際に寺に清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせた。この寺・信康の墓ともに現存する。




IMG_6826.jpg
駐車場からの登城口。ちなみにこちらは追手ではなく搦手側。立派な城址碑をゲットできたのでもう登城完了にしてもいいくらいですが、一応本丸まで行ってみます(笑)右手眼下には天竜川の流れが迫る要害地形。



IMG_6829.jpg IMG_6828.jpg
北曲輪(左手)と本丸(右手)の間に入れられた堀切。この堀切は竪堀のような形となって斜面を下っていきます。北曲輪には現在旭ヶ丘神社が鎮座。



IMG_6831.jpg IMG_6832.jpg
喰違い虎口                本丸

本丸の入口は石積みの喰違い虎口となっています。その手前は若干のたまり場となっており、後述の図面によると馬出空間のようです。本丸内は整備された広場。



IMG_6833s.jpg
二俣城

図の上方搦手側から虎口を経て本丸内に至りました。この図のある説明板の記載内容も充実していますが、上でさんざん引用文を用いているので掲載は省略。



IMG_6835.jpg
天守台!

IMG_6837.jpg IMG_6839.jpg
天守台                  天守台上から見た本丸

二俣城といえばこの天守台が有名ですね。本丸内にデーンと残っている様子は伊勢の神戸城と似たような感覚を覚えます。この天守台の築造時期については、大久保忠世が武田勢と対峙していた天正3年から10年ころまでと想定され、家康による浜松城の改修と時期を同じにすることもあり共通した部分が多く見られます。



IMG_6834.jpg IMG_6844.jpg
本丸残存土塁               枡形門跡

本丸の東側部分には一部石積みの土塁がよく残っています。本丸と二郭との間には枡形状空間があり、二之門で仕切られていたようです。



IMG_6849.jpg
二郭内へ入る虎口(追手虎口)

IMG_6852.jpg IMG_6853.jpg
二郭土塁                 城山稲荷神社

本丸からはすぐ二郭へ入れますが、いったん階段を少し下りて振り返って二郭入口部分を撮影。部分的に総石垣になっていて見栄えがあります。こちら側が追手口であった模様。二郭内には神社が鎮座し、南側は土塁で仕切られています。



IMG_6855.jpg IMG_6859.jpg
土塁の外側には堀切があり、そのさらに外側は蔵屋敷の跡です。図面では蔵屋敷のさらに外に南曲輪がありますが、ここらで撤収。



IMG_6860.jpg
二郭下の大手口側から眺めた二俣の街並み(南東側)



IMG_6861.jpg  
IMG_6862.jpg IMG_6863.jpg
IMG_6865.jpg
二郭から降り、東側段下の腰曲輪を経由して旭ヶ丘神社直下へ。結構な勾配の石段を登ると最初に登ってきた神社脇の場所に出ます。最後に神社を参拝して城を後にしました。


二俣城
『井伊直虎GUIDE BOOK』No.57。達成状況【16/57】



所在:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
評価:★★★

大河第18回の紀行で登場した二俣城。今思えばあの回ではなく第37回か信康事件の回での紹介のほうがふさわしかったですね。天守台というスポットが残り、要害性も高い。歴史的な側面からも訪問しがいがあり、ビギナーからマニアまで楽しめる城でしょう。近くにある信康ゆかりの清瀧寺も併せて訪問がおすすめ。
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

01 | 2024/02 | 03
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 - -

月別アーカイブ

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: