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高根城① ~月さえて 昔を偲ぶ~

青崩峠からR152に復帰し一路南下。この途中で「浜松市まで六十ナントカ㎞」とかいう青看板を見た気がするが、はて、ここはもう浜松市の市域に入っているはずだが。仮に浜松市の中心部までの距離だとしても、いくらなんでも同じ市内で遠すぎやしないかい。うん、きっと自分の見間違いだったのだ。そうにちがいない。

快調に南下を続け、水窪町の中心部に到着。水窪橋で水窪川東岸に渡り、川沿いの道をしばし進むと高根城の案内表示が現れます。高根城、以前からすごく来たかった城です。今回の遠征のメインの城の一つ。



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説明板と概略図

高根城九頭合城

応永21年(1414)、奥山金吾正並びに諸士が伊良親王を守護して、周智郡奥山に仮宮を設け、葛郷高根の城を築いたのが城の始まりと伝わる。本曲輪の発掘調査により、城の創築が十五世紀前半に遡ることは確実な状況であるが、伝承との関連は不明である。
その後奥山氏は、十六世紀前半の永正から大永年間(1504~28)頃に、駿河守護の今川氏の配下に組み入れられ、北遠江のほぼ全域を支配下としている。永禄年間(1558~70)後半、今川家が凋落傾向をたどると、奥山氏内部で、今川・徳川・武田への帰属を巡って内部分裂が勃発、城は落城したと考えられる。
元亀から天正年間初頭(1570~76)にかけて、武田氏が遠江侵攻戦を開始。本城は、武田信玄・勝頼父子によって大改修され、国境を守る橋頭堡とされたが、武田氏滅亡と共にその使命を終えている。
現在、本曲輪を中心に、発掘調査成果をもとに上屋構造物を含め復元整備が実施され、往時の勇姿を取り戻した。城域を区切る武田氏独特の二重堀切の規模も雄大で、また各曲輪を接続する城内道も検出、復元されている。(説明板参照・修正あり)




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少し登るときれいに整備された駐車場があります。これなら観光客が増加しても駐車スペースに困ることはまずないでしょう。ちなみにこの日は平日の午後ということで、ほかに駐車車両はなし。気温は30℃を優に超える暑さのため、わずかな日陰を求めて一番隅っこにぎりぎりまで寄せて駐車。涙ぐましい努力です。

併設されているトイレには体力に自信のない人用に裏口ルートの案内図が貼り出されていました。場合によってはそちらのルートを利用するのもありでしょう。また、駐車場にはもう一つ大きな説明板があります。

高根城久頭郷城)の歴史と構造
 
高根城は遠江最北端に位置する山城で、標高420m、比高150mの通称三角山の山頂部を中心に築かれている。城址からは、水窪町中心部及び北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろすことが出来る。高根城は、この一本の主要街道を押さえることと、信遠国境警備を目的として築かれた城である。
城は山頂部に本曲輪・二の曲輪・三の曲輪を南北に配し、各曲輪間には堀切が設けられている。南端部に城域を区切るために真中に土塁を挟んだ二重堀切が設けられ北側堀切は三の曲輪を取り巻くようにU字を呈している。城の東西に位置する崖地形を生かし、巧みに堀切を取り入れたコンパクトな姿は、戦国期の形態をよく残す。
城の創築は、出土遺物から15世紀前半、地元国人領主奥山氏が築いたと考えられる。その後、今川氏親等から安堵状を得ているため15世紀末頃から今川配下に組み入れられたと思われる。奥山支配は、今川家の没落と、武田氏・徳川氏の台頭があった永禄年間後半頃に大きく変化することになる。『遠江国風土記伝』によると、永禄年中(1558~70)に、信州の遠山土佐守に攻められ落城したと伝わる。永禄12年(1569)には、今川氏真・徳川家康双方から所領安堵状を、元亀3年(1572)には武田信玄からも安堵状を得ている。遠州怱劇の頃、奥山氏内部で、今川・徳川・武田のどこに組するかで内部分裂が起こり、奥山惣領家が滅亡し、最終的に傍系が武田配下に組み込まれた可能性が高い。
元亀3年8月には、武田軍が在番することが可能な城となっていたことが、高遠城の保科筑前守に対した武田信玄の28カ条の軍役条目から判明する。天正4年(1576)遠江から武田勢力が一掃される。高根城も、この時点で廃城となったと推定される。現在見られる高根城は、出土遺物やその構造から、元亀2年~天正4年の間に、武田氏の手によって、現在見られる姿に大きく改修されたのである。
江戸時代に、奥山氏を祭る稲荷神社が造られ、現在も山頂に稲荷が祭られている。この稲荷神社に伴う改変を若干受けているが、武田氏の原型を良く留めていると評価されよう。
平成6年~11年にかけて、本曲輪を中心に発掘調査が実施された。この調査によって、本曲輪から礎石建物1棟、掘立柱建物2棟(内1棟は、2間×2間の井楼櫓と推定)、礎石城門1基、掘立柱城門2基、柵列1条が検出された。また、本曲輪の南側下段から、掘立柱城門1基、柵列1条、木橋跡、梯子跡も確認されている。最も注目されるのは、各曲輪間を結ぶ城内道が完全な形で検出されたことである。幅約1間の道は、三の曲輪から土橋を利用し、二の曲輪東中段を真っ直ぐ通り、梯子によって二の曲輪下段へと上がる。ここからは、木橋を通り、直角に曲がり、城門をくぐり、さらに三度直角に折れ曲がり、本曲輪搦手門へと至る構造であった。全国的にみても、完全な形で城内道が検出された事例はなく、戦国期の城内構造を知る貴重な遺構と評価される。
出土遺物は、①城郭創築以前の遺物②奥山時代(15世紀前半から16世紀中頃)③武田時代(16世紀後半)④廃城後(江戸時代以降)の遺物が出土しているが、約8割が②の奥山時代の遺物であった。
発掘調査に併せて実施された整備事業で、礎石建物1棟、掘立柱建物1棟(井楼櫓)、城門4基、柵列2条が復元された。復元考証は、三浦正幸広島大学教授と織豊期城郭研究会が行った。なお、安全柵として、本曲輪を囲む土塀、二の曲輪・三の曲輪を囲む柵列が模擬復元された。また、本曲輪には管理施設が置かれている。
城内道は、位置はそのままで復元されたが、梯子・木橋については、安全上の観点から現代工法によった。二重堀切を渡る木橋は、遺構を保護するためと、南からの通路を確保するために設けられた新たな施設で、本来ここに位置していたものではない。(説明板参照)


城の別名がこちらの説明板では久頭郷城、下の説明板には九頭合城となっていますが、統一しなくていいんですかね。まあどっちでもいいや。それより先ほど青崩峠を登った時よりもさらに体調が不良になっています。ひたすら頭が痛いんですけど。もうこうなったら山を登りながら治すしかない。登城開始。



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駐車場から舗装路をてくてく歩き、登城口に到着。これから訪問する方のために助言しますと、駐車場の先にも車で上がれる道が続いていますが、終点は人家の敷地となり駐車スペースはありませんので注意しましょう。登城口にはハチの巣注意の張り紙やらここから20分の張り紙やら。高根城というときれいに復元された様子が写真などでよく紹介されているのですが、簡単に到達できるような場所にはないようです。



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登り                   登り

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分岐                   登り・・・

・・・うお~!きついぞコレ。先人たちの登城記には登りがきついという記載は特に見かけなかったためすぐに着くものと思っていたが、甘かった。この暑さの中、ガッツリ山城ではないですか。しかもさっきから頭痛がひどさを増しているんですけど。



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うっぷ、ちょっと待って。これはギブです。
いや、あきらめて撤退ということではないのですが、ちょっと休憩取らせてもらいます。
日陰に腰を落として頭を抱え、頭痛が引くのを待つ。

う~ん、ちょうど1週間前に行った富士弾丸登山でも死にそうになった局面があり、その時のつらさとはさすがに比べるべくもありませんが、今回は今回でつらい。なんだか寒気までしてきた。気温は30℃オーバーで体は汗をかいているのに、その体を直に触るとなんか冷たいし。大丈夫かなこれ。

・・・2分ほどじっとしていて、何とか頭痛の波は去ったようです。代わりに寒気は続いていますが、動けないほどではない。それでは行動再開。できるだけ体力を消費しないモードで一気に山頂を目指します。



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眺めのいい場所に出ました。ここまで登城口から15分、途中ヘロヘロになって丸2分休憩したことを考えればまずまず妥当なタイム。適度に体の熱も戻ったようだし、これなら大丈夫そうです。

早速眺めを堪能しましょう。



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高根城からの眺望

お~、見事な眺めです。苦労して登ってきたかいがあったというもの。精神的なものだと思いますが、こういう眺めを見ると体調もかなり良くなるような気がしますね。


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ちなみに山の名前はこういうらしいです。ちょうど同じアングルになりました。



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それでは主郭(本曲輪)へ。こちらが大手側となり、城門や土塀が復元されています。



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本曲輪の構造(現地説明板より)



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復元された建物群

これはすごいですね。近世の城と比べると中世の城の施設を復元した例は全国でも圧倒的に少数ですが、その貴重な城の一つがまさにここ。やっぱりあれですよ。建物って大事ですよ。近世の城は言われなくても勝手に復元が続けられていますけど、私的にはむしろ中世以前の城こそ建物の復元が大事なんじゃないかとすら最近思うようになっていますよ。



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井楼櫓

復元時期は永禄末期から天正初期ごろにかけてのもの。信玄・勝頼によって建てられ、高さ8m、平面規模は二間×二間の正方形。発掘調査から、非常に大きな柱を使用して建てられていたことが分かっています。復元に当たっては釘を使わず当時の技術を駆使して組み立てを行ったとのこと。



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主殿風の建物は神社併設の管理施設。掲げられた文言が味があります。

月さえて 昔を偲ぶ 高根城

施設前の箱には来城者ノートが入っていたので、例によって記載しておきました。



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コンパクトな主郭内にはこのほか奥山氏の慰霊碑や背後の土塁なども見ることができます。



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搦手側の柵の間から眺めた二郭方面。見るからに楽しそうな空気が漂ってきます。


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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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