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五戸代官所 ~「五戸通」28カ村を統治~

対津軽の前進基地として築かれた五戸館は、江戸時代に入っても周辺地域を治めるための拠点として存続し、寛永12年(1635)ごろには盛岡南部藩28カ村(三戸郡下13カ村、北郡下15カ村)を統轄した五戸代官所が同地に設置されます。



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説明板には三戸郡と北郡合わせて28カ村が「五戸通」の管轄に入っていた旨が記されています。南部盛岡藩の代官所跡を訪問したのは大槌代官所野田通代官所に続いて3つ目。この地域特有の行政区分である「通制」については野田通代官所の項で触れています(wikiだと「五戸通 29ヵ村」と記載)。なお幕末における五戸代官所の石高は14,170石で、藩領内で2番目の石高であったといいます。八戸藩の石高が2万石であったことを考えると、この代官所の治める範囲はかなり広大であったことがうかがえます。



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こちらの門は文久年間(1861~1864)の建築と推定されています。屋根と土台が老朽化したため修復され、現在町の文化財に指定されているようです。



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代官所建物。多くの人が「代官所」として思い描くような建物とは異なり、どちらかというと「大きな農家の母屋」といったような趣です。むしろ大庄屋の屋敷のほうがこれよりも立派でしょう。当時の平面図を基に復元したということなので、なかなかリアルな復元であるといえます。
この代官所には2名の代官のほか、下役、帳付、御野馬別当、牛馬役、御蔵奉行など約13名の役人と、そのほか多くの下働きの者が交代しながら勤めていたとのこと。



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式台                    裏側

内部には入れないので外観のみ。建物内は通常使われた「中之口」「御用之間」、儀式や特別な客人に対して使われた「玄関の間」「本座敷」などの部屋があるようです。




所在:青森県三戸郡五戸町舘
評価:★☆

文久年間に再建された代官所の建物は、明治2年に「奉行所」となり、明治5年には「青森県民事堂五戸支庁舎」として使われています。また明治3年には戊辰戦争で敗れた会津藩が新たに斗南藩の立藩を許されていますが、田名部の円通寺に藩庁を移すまでの3か月の間、この旧五戸代官所に藩庁を置いたということです。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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