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根城① ~北奥羽を治める「根の城」~

八戸城の次に向かうは日本100名城の一つ・根城!訪問するのは2012年9月の第1次北東北遠征以来4年ぶり。特段の事情がないかぎり同じ城館の再訪は極力しないというのが大原則(というか新規登城を優先させると必然的にそうなるだけ)ですが、この城に関しては本公開する前に写真データが消滅してしまったので、再訪優先順位は比較的高かったところ。個人的には記事を作成してようやく攻略完了扱いなので、これまで半分未訪状態だったようなものです。前回だいたい見て回っていますが、もう一度がんばって探索することにします。

まずは八戸市博物館前にあるこちらの像から。師行さん、お久しぶりです。
(以下引用はwiki参照)


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南部師行像

南部師行(なんぶ もろゆき)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将で根城南部氏の当主。

元々は甲斐国に所領を持っていた。南部氏の庶流である波木井南部氏を継承していた。元弘3年/正慶2年(1333年)、新田義貞の鎌倉攻めの際、兄時長、弟政長と共に義貞の軍勢に加わって武勲を立てた。後醍醐天皇の建武の新政が開始されると、南部一族も武者所など枢要な役職に編成された。同年10月、陸奥守北畠顕家に従って後醍醐天皇の皇子の義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城(現在の宮城県多賀城市)に下向した。師行は弟政長、結城宗広、親朝親子、伊達行朝、長井貞宗、伊賀貞光らと共に随行し、北畠氏を頂点とする統治機構、所謂「奥州小幕府」の一員となった。師行は糠部郡の郡代として命ぜられ、行政の管掌を担当した。糠部郡は駿馬の産地であり、その郡代に任ぜられたことは、師行が軍馬の育成、調達の役割を任されたことを意味している。この任命は、師行の長年の牧経営のノウハウを活かすための人事ではないかとも推測されている。

八戸入りした師行は、最初は旧領主である工藤三郎兵衛の館を住居としていた。間もなく根城(現在の青森県八戸市根城)を築城しここを拠点に活動する。最初の仕事は、二階堂行珍に所領として与えられた久慈郡に代官を送り届けることであった。その後も土地の配分や違反を犯したものへの処罰などに奔走した。

糠部に入ってさほど経たない頃、師行は根城の近くにある毘沙門堂に、二反の土地を寄進している。鎌倉幕府は滅んだとは言え、奥羽は北条氏に属していた御家人達が割拠しており、未だに残党の巣窟であった。七宮涬三は毘沙門堂への寄進は、四方を敵に囲まれ、懸案事項が山積されていた師行が武運を祈願した「神頼み」であると解釈している。




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建武元年(1334年)になると、北条残党の名越時如と安達高景が蠢動して、安東一族をも糾合し、大光寺城持寄城に籠城して抵抗を続けた。師行は顕家の指揮の元、黒石の奉行工藤貞行や、多田貞綱と共に北条残党の鎮圧に当たった。この年の6月、師行は糠部で貞綱と打ち合せを行っている。執拗な抵抗に難儀した顕家は、師行に内応による切り崩しを要請してきた。顕家の命を帯びた師行は工藤貞行と連携して切り崩しに尽力し、外々浜明師、安東祐季らを味方に付けることに成功、調略によって趨勢は顕家側に有利となり、11月、持寄城は陥落した。師行は、敵陣営の切り崩しや戦闘において、反乱の鎮圧に貢献した。(大光寺合戦)

翌年3月、師行は外ヶ浜内摩部郷の諸々の村を拝領、弟の政長にも土地が与えられた。これは前年の持寄城攻めにおける戦功に対する褒賞であった。

建武2年(1335年)、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、顕家は尊氏を追討するために義良親王とともに陸奥の地を離れた。尊氏は奥羽の牽制、征圧の為に斯波家長を派遣しており、相馬重胤など、顕家に反感を抱く武将達が参集した。師行は顕家のいない陸奥を守備するために政長と共に残留、根城を政長に任せ、自らは国府多賀城を拠点として、家長や、それに呼応した曽我貞光と戦った。



 
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延元元年/建武3年(1336年)3月、顕家と義良親王が再び陸奥に下向した。師行は奥羽を政長とその子信政に任せ、顕家に随行した。陸奥を出発するにあたって、師行は政長と信政に遺言を残したことが『三翁昔話』に描かれている。師行は遺言の中で、此度の上洛は厳しく、おそらく自分は討死するだろう、しかし自分が戦場の露と消えても、悲しまず、節操を曲げずに忠節を貫徹したことを喜んで欲しいと、政長父子に覚悟を伝えて励まし、また、自分達南部一族が奥州に多くの土地を得られたのは顕家卿と帝の恩恵に浴することができたからこそで、たとえ帝の政に瑕疵があろうが、安易に節操を曲げてはならないと戒めている。

延元2年/建武4年(1337年)には多賀城を北朝方に攻略されたため、陸奥における南朝の拠点を伊達郡霊山(現在の福島県伊達市)に移した。この年の8月に顕家と義良親王に従い、京へ向けて出発し、途中鎌倉を占領した。

延元3年/建武5年(1338年)1月、南朝方は美濃国青野原(現在の岐阜県大垣市)での青野原の戦いでは北朝方を破った。しかし、同年5月22日の和泉国石津(現在の大阪府堺市)での石津の戦いで北朝方の高師直の軍に敗北し、師行は顕家とともに戦死した。根城南部氏の家督は弟の政長が継承した。堺市西区浜寺石津町中5丁に顕家と共に供養塔が存在する。

明治29年(1896年)、師行は南朝への忠義を讃えられて正五位を追贈され、明治30年(1897年)には士族とされていた遠野南部氏(根城南部氏の後身)の当主の南部行義が特旨をもって男爵を授けられた。


例によって銅像周りをぐるぐると。なんだかんだで全国至る処での銅像コレクションがたまってきてしまったな。銅像写真集を出版できるレベル。



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博物館前から史跡広場へ向かう手前には解説パネルがずらりと並べられています。これ野ざらしで展示されていますけど、どれもよくまとまっていて必見です。ここで1枚1枚すべて順番に掲載していきたいほど。根城は北奥羽地方を治める南朝方の根本となる城として築かれました。

視覚的にわかりやすかったのは南部氏の系統の流れについて。根城八戸城はすぐ隣り合っていますが、それぞれを治めるのは同じ南部氏でありながら別の系統となります。根城南部氏は1627年遠野鍋倉城へと移り、遠野南部氏となります。対する八戸南部氏は1664年に盛岡南部氏から分家したもので、盛岡南部氏のもとは南部宗家の三戸南部氏。根城南部氏とはかなり早い段階から分かれています。



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鳥瞰図

wikiには本丸中館東善寺岡前舘沢里館の5つの館(曲輪)が連なる連郭式の平山城との記載がありますが、現地の絵図や説明では8つの郭の平城としています。この辺りは解釈の違いでしょう。



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八戸城東門(八戸市指定文化財)

現地説明板では安政六年(1857)、wikiでは安政八年(1859)に台風で倒れ、八戸藩家臣・小幡氏に払い下げられたもの。元々は根城にあった門を八戸城に移したという伝承もあります。現在は根城史跡の広場の入口となっています。



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堀跡

門をくぐってすぐに表れる空堀。現在はU字型に整備され堀底も歩けるようになっていますが、本来はV字型の空堀で現状よりも深さがありました。



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薬草園                  東善寺跡

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実のなる木                鑑賞の対象となった木

城内からは籠城に備えて植えられたと考えられる実のなる木や鑑賞の対象となった木の種子が発掘されています。城内の「しだれ桜」は、根城南部家初代・南部実長が保護した日蓮宗総本山久遠寺の見事なしだれ桜の古木に倣って植えられたものだそうです。



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通路跡

堀を埋め戻した上に砂利などを敷いてつくられました。



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中館手前の堀



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中館跡

部活の練習でしょうか、中学生くらいの子が走り込みをやっていました。



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中館にある四阿

発掘調査で発見された建物跡(馬屋と考えられている)に復元された建物。中を覗くとさっきの走り込みやってる子たちの荷物が大量に置かれています。「八幡馬」についての説明もありました。



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中館跡にある模型


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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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