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八戸城 ~丘に佇む八戸藩2万石の居城~

おがみ神社からすぐ西側にある三八城公園(みやぎこうえん)へ移動。祭りでもあるのか、公園周りには朝から屋台がセッティングされています。



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三八城公園の碑

三八城とは三戸郡八戸城という意味であり、八戸城跡が三八城公園となっている。1644年(正保元年)、南部氏第28代の重直が盛岡で没するが、嗣子がいなかったためにその遺領10万石は、盛岡8万石と八戸2万石に分封され、盛岡は重直の弟である重信が継ぎ、八戸は末弟の直房が領主となった。早速直房は築城をして1666年(寛文6年)ごろに八戸城が完成した。(wiki参照)




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公園に隣接して八戸市公会堂、その奥には八戸市庁。

ここで違和感を感じた方は注意力があります。八戸「市庁」って。「市役所」じゃなくて?道路地図上も「八戸市庁」表記となっていますし、市のHPも「八戸市庁」となっています。どうやら誤記ではなく公式の呼び方のようです。

で、なんでそういう表記なのかというと、県庁移転の際に八戸ではなく青森市に県庁が置かれることとなったことに対抗して、敢えて「市庁」を公式に使用している、という説があるようです。これだけだと「高崎と前橋は仲が悪い」みたいな単なるネタレベルの話ですが、実際はもっと根が深い話のようです。つまり昔からの南部と津軽の対立構造が尾を引いており、そのため今でも八戸は青森・弘前と仲が悪い、みたいな話。もちろん公的にこんなことは引きずってないでしょうが、こういう考えを持っている高齢者もまだいるのでしょう。ちなみに市民は普通に「市役所」と呼んでいるみたいです。



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城址碑

城の説明板を見かけなかったのですが、どうやら公園入口の屋台の影に隠れていたみたいです。
やむないので以下wikiから転載。

八戸城は、現在の八戸市内丸に位置し、根城(八戸)南部氏が拠点としていた八戸根城とは全く別個の城郭である。

南部師行が八戸根城を築くのとほぼ同時に根城南部氏2代政長の三男・信助が根城の支城として築いたのが始まりとされ、築城時期・館の位置・規模については不明である。その後、この一族は中館(なかだて)氏を名乗り、居城は中館と呼ばれた。八戸は津軽領と接する要衝であったことから、南部利直は、寛永4年(1627年)に根城(八戸)南部氏が遠野へ移封されると、中館氏もこれに従い、八戸は南部(盛岡)藩の直轄地として代官支配によって整備を行っていった。

八戸藩が分立されると、初代藩主である直好は名を直房と改め、新たに居城を築くことなく、三八城山に既にあった盛岡藩時代の建物を引き継いで、館を修築して八戸城として使い、家臣団の編成と城下町の整備に取り組んだ。

城郭は本丸と二の丸から構成される。現在は跡地に三八城神社、三八城公園がある。




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広場には迷路が設置されていて、その奥にある説明板と石碑を確認するのに一苦労。内容は城に関するものではなく、地元出身の三浦哲郎についての説明とその文学碑。



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三八城神社

三八城神社のある八戸市内丸は、藩政時代には八戸城の本丸と二の丸のあったところである。そのうち現在の三八城公園が八戸城の本丸の跡である。1871年(明治4年)の廃藩置県で城内の建物が取り壊され、神社はその跡に建てられたものである。

1878年(明治11年)に創立の許可を得て、旧藩士達から灯篭、手洗い、獅子、その他の供え物が献納され、この年の8月10日から17日まで正遷宮の儀式が執行された。祭神は八戸藩初代藩主・南部直房、甲斐源氏の祖新羅三郎義光、南部氏の祖である南部光行の3人を祭る。8月6日がその大祭日である。当初、社殿は旧城内御殿の「御玄関」のところに拝殿が建てられたが、その後、西のほうへ引き移し、現在の社殿の位置は、急城内御殿の「奥御居間」の付近にあたるとみられる。(wiki参照)



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神社境内には義経北行伝説の一つ・弁慶石があります。弁慶が岩にしるした足型といわれています。



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公園案内図

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ひっそりと佇む本丸碑

三八城神社から北側に広がるのが三八城公園。神社と公園を合わせたあたりがかつての本丸の範囲といいます。

本丸
規模は東西約150メートル・南北200メートル。
現在の三八城神社付近に御殿があった。御殿は藩の役所と藩主の執務場所、居間等の奥部分で構成され、文政12年(1829年)に新御殿が建築された時に奥部分が大きく拡張された。
御殿の北側には御花畑、米蔵があり、南側には書院庭、武器の土蔵があった。天守や隅櫓は計画のみで明治維新を迎えるまで建設されることは無かった。

二の丸
本丸の東南に位置しており、現在の八戸市内丸二丁目・三丁目付近にあたる。角御屋敷(すみやしき)、学校、馬屋が置かれ、法霊社(現在のおがみ神社)、八戸藩の祈祷寺であった豊山寺、八幡宮があった。その他藩の家老格の中里家・逸見家・船越家の屋敷があった。
なお、明治維新以降に二の丸の八幡宮にちなんで一帯を「八幡町」と改称されたが、昭和33年(1958年)に再び町名を内丸の名称に戻している。(wiki参照)




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公園内は綺麗な芝生広場が広がります。中央の築山へ。



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築山頂上にある八戸城址碑」。昭和3年に建立されたもので碑文は読みにくいのですが、わざわざ要旨を記した説明板も一緒に設置されています。

八戸城址碑の要旨

寛永六年(1629)南部利直は、荒地を開いて城を築き、周りには二重堀を巡らし、郡奉行をおいてこの地を治めていた。寛文四年(1664)、利直の後を継い重直は、子がないまま没した。この年将軍家綱は、重直の遺領十万石のうち八万石を次弟の七戸隼人重信に継がせ、末弟の中里数馬直房には二万石を与え新たに分家させた。

寛文六年、直房は八戸城に入り、それから250年余りにわたり歴代の藩主・賢臣達が文武に励み、農業・養蚕・織布・畜産の振興に努め、領内は豊かになっていった。

二代藩主直政は、聡明で早くから学才の誉れが高く、将軍綱吉は側仕えにとりたてた。これに先立って朝鮮国王から将軍に屏風が送られ、これを開ける方法が屏風の外に書かれた詩に隠されていたため、著名な学者にその謎解きを命じたが果たせなかった。それを直政がたちどころに読み解き、屏風を開けることができた。綱吉はこれに感嘆し、福島五万石を与えようとしたが直政はこれを固辞し、この慎み深い実直な性格を愛で皇国三鏡の一つといわれる米曇羅鏡を与えた。直政は後に御使用人となり大いに活躍した。

八代藩主信真は、闊達で人の能力を見抜く能力があり、野村軍記を登用し海陸産物の生産を盛んにし江戸に産物を輸送させ領民は利益を得、藩の財政も潤った。

九代藩主信順は、篤実で思慮深く勤勉・倹約を奨励した。また、一族出身の木幡文内をとりたて領内を豊かにした。明治の戊辰戦争の折、奥羽連合の議が起こり諸藩の圧力が強く、八戸藩は非常に苦しい立場にあったが、信順は藩士や領民を懇々と諭し軽挙盲動を戒めた。

明治二年(1869)、版籍奉還して八戸城は政府の管理となったが、後に子爵南部利克所有となった。明治十一年(1878)、八戸城に三八城神社が創建され、新羅三郎義光・南部三郎光行・南部左衛門佐直房を祀り県社に名を連ねた。明治十四年、明治天皇が北巡の際長者山で旧藩士による騎馬打毬をご覧になった。

今ここに公園の開設と三八城神社改築が行われた記念に、町民が相談し石碑を建立し、以上のことを後世まで伝えようということになり、私が由来の碑文を作成した次第である。 以下略




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南部直房像

八戸藩初代藩主。盛岡藩初代藩主・南部利直の七男として生まれ、八戸立藩以前には中里直好(中里数馬)を名乗った。


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ぐるぐると舐めまわすように撮影

寛文4年(1664年)、兄で盛岡藩第2代藩主の南部重直が跡継ぎを決めないまま死去する。このため、盛岡南部家では御家断絶及び領地没収の可能性が濃くなった。生前の重直は幕府による裁定を願い出ており、幕命により重直の異母弟、七戸重信(七戸隼人正)と中里直好(中里数馬)は江戸に上り、裁定を受けた。盛岡藩10万石を分け、8万石を七戸重信が相続し盛岡藩を存続させ、2万石を直好に与えて八戸藩を立藩することとなった。立藩を機に直好は、南部直房と改名した。
寛文8年(1668年)、41歳にて没する。死因は病死であるとされているが、一説には「逆恨みをした盛岡藩の陰謀による暗殺」とも言われており、当時幕府からも調査が入った。幕府の調査以降、盛岡藩はわざわざ「八戸藩は分家ではない。独立した対等の立場」と表明している。
跡を長男の直政が継いだ。直政にも盛岡藩による暗殺の噂がある。(wiki参照)




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公園西側・展望デッキからの眺め。意外と高低差があります。



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参考:八戸城東門(八戸市指定文化財)

安政8年(1859年)に台風で倒れ、八戸藩の家老に払い下げられたのを機に、根城に移築。現在は八戸市根城史跡の広場の入口となっています。




所在:青森県八戸市内丸1丁目1
評価:★★(暫定)

公園内には特に遺構はありませんが、綺麗に整備されていて気持ちよく散策できます。東側から公園に入ると特に地形差は感じられませんが、西側との高低差は大きく、丘陵を生かした要害地形でもあります。近世藩庁でありながら全体的につつましい印象を受けますが、それもまた魅力といえるかも。暫定評価としているのは、南部会館前にある「八戸城角御殿表門」を見逃したため。それを合わせればもう一段階上の評価となるでしょう。いずれ訪問するときにまた。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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