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久慈城 ~久慈氏の居城、九戸政実の乱で破却~

宇部館野田通代官所からR45を北上し久慈市街地へ。R281に乗り換え西に進み、久慈川を渡ると国道沿いに久慈城の入口看板が設置されています。
看板を曲がり大川目小前を通過すると、正面の丘陵が近づいてきます。



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天気が・・・

上の写真真正面の丘陵先端に久慈城は築かれました。現時刻は17:45。時期的に晴れていればまだ明るい時間帯ですが、曇り空+妙な靄に覆われ視界は不良。なんか気が滅入る暗さです。



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丘陵の先端下、山口地区公民館手前に設置の説明板。

久慈城は別名八日館、通称新町館ともよばれ、久慈川沿いに開けた平野を一望する標高約80m、平地との比高約40mの男山を利用して構築した平山城で、城跡は現在も主郭部や三段構成の帯郭、濠跡、馬場跡等が良好な状態で残っており、中世山城の条件を備えた極めて重要な史跡である。

久慈城の築城年代は定かではない。資料には久慈氏12代久慈備前守信実が「居を久慈大川目-八日館と云う-に構え」と記録されており、信実以前に既に城館があり、そこに居を構えたかもしれないし、あるいは信実によってはじめて久慈城が築かれたかもしれない。久慈氏は19代三百数十年にわたり久慈地方を治めたと伝えられているが、信実以前については諸説があり不明な点が多い。

天正19年(1591)、18代久慈備前守直治とその女婿の19代久慈中務政則は、政則の兄である九戸城主九戸政実と三戸城主南部信直との争乱で政実方として参戦。九戸城に籠城し、信直方の救援に派遣された豊臣秀次を総大将とする10数倍の大軍の総攻撃を受けた。3日に間にわたる激しい攻防戦で包囲軍は兵の損害が大きく、食糧の欠乏と軍紀のびん乱、寒気の到来、悪疫のまん延等に苦しみ、作戦を変えた浅野長政らの謀略により、一門の郎従の身命を助ける事を条件に降伏を勧め、九戸方も受け入れ開城した。しかし開城とともに城中の士卒は皆殺しになり、政実や久慈父子らは捕らわれて秀次の陣屋に送られ、栗原郡三迫(宮城県栗原郡栗駒町岩ケ崎)で処刑された。

九戸争乱の際に久慈城周辺は戦場とはならなかったが、久慈氏の嫡系が滅亡し城主を失った久慈城は、その後間もない天正20年(1592)6月、豊臣秀吉の諸城破却令により取り壊され、姿を消した。(説明板等参照)


『天を衝く』で有名となった九戸政実の乱。九戸城の隅にあったプレハブ資料館に、この騙し討ちについての展示があったことを覚えています。豊臣側の立場では卑劣なことではなく騙されるほうが悪いとでもいいそうですが、ならば豊臣が滅びるのもまた自然なこと。



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案内図&標柱



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城の南側・気比神社

このあたりには駐車場がないので、少し先の慈光寺の駐車場を借用。この慈光寺は久慈氏の保護を受けており、久慈氏後裔の摂待久慈家の墓碑や念仏碑が現存しています。



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城の北側・稲荷社入口から稲荷社

ここで無念のデジカメバッテリー切れ。車内電源搭載前は各所の探訪でこういう事態が起こっていました。



所在:岩手県久慈市大川目町第25地割
評価:★★(暫定)

案内板の絵図は結構しっかりしていますが、実際の城内主要部は整備状況がよろしくなく、稲荷社から主郭へ向かう道などは藪で一番ひどい状況でした。写真不完全のため暫定評価ですが、電池が残っていてもこの整備状況では馬場跡や主郭の標柱くらいしかまともな写真は撮れなかったことでしょう。ちなみに九戸政実の乱で処刑された久慈直治の父・信義の弟が出奔して津軽郡代の石川高信を頼り、大浦氏の養子となり大浦城主となったという説があります。この人物が初代津軽藩主の津軽為信となるのですが、諸説あるところです。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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