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大槌代官所 ~大震災と復興と~

狐崎城を後にし、R45を北上して釜石市から大槌町へ。大槌町中心部へ向かうため国道を下りると、周囲の景色が一変。

・・・何もない土地が広がっている。

衝撃を受けつつも、まずは山上にある大槌城を目指すため最初の目的地に定めた大槌町役場へ。



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大槌町役場

入口がちょっとした城門構え風になっています。この地はかつて大槌代官所が設置されていたところであり、その跡地を引き継いで役場が作られたのだろう、とこの時は特に疑問もなく思いました。



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役場敷地に隣接して小高い地形が残されており、傍らには石板が設置されています。



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史跡 大槌代官所

寛永九年(1632)、南部藩はここに代官所を置いて、南は平田村から北は豊間根村、内陸方面の小国・江繋村に至る「大槌通」二十三ヶ村を統治させた。代官は盛岡から派遣されたが、ほとんどの場合下役および物書(書記)として地元の士分の者若干名が勤務して、実務を担当していた。
代官所の隣には山奉行所のいる山所(役所)が建っており、街道沿いの入口には高札が建てられて諸禁制法度の旨を記していた。
政治・経済の中枢となった代官制度も、明治二年(1869)に廃止され、大槌代官所備品の大半は入札によって払い下げられた。小れいじん筒(鉄砲)、刀類、弓矢、袖がらみなどから、提灯、包丁などまであった。
代官所跡は、現在の大槌小学校敷地内に位置する。

平成二年十二月 大槌町教育委員会


下線部のところで違和感を感じました。大槌小学校・・・どこにあるの?周囲を見渡しても学校らしきものはなく、地図を見てもやはり近くに学校はありません。しかし跡地を示す石板は該当地付近に設置されるのが基本。ということはやはりここが代官所跡地であり、なおかつ大槌小学校もこの場所にあった、ということになります。

・・・薄々と気付いていた答えはありましたが、あえて目を背けるように考えを中断。このちょっとだけ残った土台に登ってみます。登り口には立入禁止の張り紙がありましたが、上に石碑が建っているのが見えたので、すみません、ちょっとだけ立ち入らせてもらいますよ。



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土台の上から

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土台の上から

ほんの数m登っただけですが、かなり先まで見通せます。役場やJRの駅もある町の中心部であるのに、こんなに見通せるほど建造物が何もない・・・

3.11の大震災の爪痕の深さと、それから5年半(訪問時現在)経っているのに復興は思うように進んでいないという現実。

余談ですが、2017年4月、当時の復興大臣が東日本大震災の被害に関し「まだ東北で良かった」というトンデモ発言をして辞任に追いやられましたが、どんな気持ちでその発言をしたのか本当に理解に苦しみます。私も完全に物見遊山程度の認識でこの地を訪れましたが、一度でも現況を自分の目で見れば(これでも当初よりはかなりきれいに片付いた後ではあるが)、上記のような発言など逆さまになっても出てこないのですが。仮に悪意がない上での発言だったとしたら、ナチュラルに東北を下に見ているということでより根が深い気がします。件の大臣は佐賀県出身で九州比例ブロックでの当選ということですが、地元の有権者の前でこう言えるのですかね。「地震が熊本でよかった、豪雨被害が九州北部でよかった」と。

・・・まあ政治的なことにはあまり首を突っ込みたくないのでこの件はこれまでにしておきますが、この地を訪れたことで被災地の現況をこの目で見たいという気持ちが強くなりました。今回の探訪ではこの後被災地はほとんど見ることはできませんでしたが、今後訪問する自治体リストに以下の場所を登録しておきます。

・陸前高田市
・南三陸町
・石巻市 ほか



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土台の上から。立派な石碑には大槌城について記されています。

現在の町役場の場所には、かつて大槌小学校がありました。3.11の津波とその後の火災により校舎の大半を失い、現在は他の学校と統合して別の場所にあります。地震発生後、大津波警報が発表され全校児童は高台に避難したり、親が迎えに来て学校を離れたりしたが、高台に避難した児童は全員無事で、親が迎えに来た児童の7名は犠牲となりました。石巻の大川小学校とは逆の例ですが、いずれのケースも高台に逃げれば助かる可能性が高いことを表しています。

以下wikiより抜粋。

岩手県の被害は津波によるものが中心であった。

岩手県沿岸は、海岸線近くまで山地が迫り、平地が狭いという地形のため、浸水面積は58km2と3県では最も小さかった。しかし、その狭い平地に漁港と市街地が広がっていたため、浸水域の人口は約11万人であり、浸水域の人口密度は1,900人/km2と3県で最も大きかった。

県中南部は津波高が増すリアス式海岸のため、津波常襲地域であり、津波への対策(防波堤・防潮堤)の規模は日本随一であった。過去の津波の伝承や石碑が至る所に残り、住民の防災意識も高く、多くの人々が避難行動を取ったが、想定を大きく上回る規模の津波が押し寄せたため、甚大な被害を受けた。

陸前高田市では、市民会館や市民体育館などの指定避難所の多くがほぼ天井まで水没して避難者の大半が死亡し、市街地全域が壊滅的被害を受けた。高田病院で4階まで浸水し27人が亡くなるなど、1,800人弱の犠牲者を出した。市職員も1⁄3弱に当たる113人が犠牲になり、浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、大槌町と同率の11.72%であった。

大槌町では、役場で災害対策本部の準備をしていた職員60人中、当時の町長である加藤宏暉を含め30人以上が亡くなるなど、1,300人弱が犠牲になった。また、火災も発生した。浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、陸前高田市と同率の11.72%であった。

釜石市では、本来は災害後の避難生活を主とした施設であった鵜住居地区防災センターで津波避難の訓練も行われていたため(最大の可能性として)244人が避難して210人の死者が発生するなど、約1,050人が犠牲となった。元新日鉄釜石ラグビー部の選手で、釜石ラグビー協会会長だった佐野正文や、マスターズ陸上で世界記録を持っていた104歳の下川原孝も犠牲となった。また、ギネス世界記録にも認定されていた世界最深の釜石港湾口防波堤が破壊された。鵜住居地区は、市内の犠牲者の半分以上を占める悲劇の一方で、「釜石の奇跡」と呼ばれる津波教育の成功例もあった。市立釜石東中学校では、地震発生直後に生徒達が自己判断で避難先に各自走り出し、それを見た隣接の鵜住居小の児童も続いた。第一避難先の介護施設に到着して整列点呼で全員の無事を確認したが、想定にとらわれない教育の下、中学生が小学生の手を引いてさらに高台へ走り出し、それを見た地域住民も後に続いた。学校は10mを超える高さの津波に襲われ、第一避難先の介護施設も1階が水没したが、当日登校した生徒児童約600人全員が無事であった。また、生徒達がさらに上へと避難していく姿を見た介護施設側は、1階の入所者を3階へ移動させていたため、犠牲者が出なかった。

山田町では、介護老人保健施設「シーサイドかろ」で入所者74人と職員14人が亡くなるなど、750人以上が犠牲となった。また、津波に加えて大火も発生した。

宮古市の田老地区は、総延長2433mのX字型、海抜10mの巨大な防潮堤が城壁のように地区を取り囲んでおり、住民は万里の長城と呼び、「津波防災の町」を宣言するほどであったが、それを破壊、越流した津波により地区全体で185人が亡くなるなど、500人以上が犠牲となった。

大船渡市では、特別養護老人ホーム「さんりくの園」で62人が亡くなるなどし、延べ400人以上が犠牲となった。

この他に、野田村や田野畑村でも甚大な被害を受けた。


インフラ面での対策と高い防災意識にもかかわらず、この凄まじい被害。中でも大槌町はトップクラスの打撃を受けたのですね・・・私も当時の報道で記憶に残っている部分があります。
あと釜石市の例を見ると、石巻の大川小学校のケースはほんとに人災にしか思えません。

最後にもう一つ。上の写真にも写っているイチョウの木、私の訪問時にはまだ元気なように見えたのですが、どうやら枯れてしまったようです・・・





所在:岩手県上閉伊郡大槌町上町1
評価:

だいぶ城館と関連ない話で埋まってしまいましたが、被災地探訪を思い立った原点の地としてこれからも印象深く記憶に残る場所になると思います。あとはイチョウの木、残念だなあ・・・
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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