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狐崎城 ~釜石一揆の舞台~

遠征2日目の第1城は、釜石市役所北東、釜石湾に面した山上にある狐崎城から。狐崎玄蕃によって築かれた城とされます。南側の商店から山に向かう道が城への入口ですが、地図を見るともう一段上の道まで車で入れるように見えたので頑張って車でトライ。



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南西側麓から。周囲にはあの3.11の津波被害の爪痕がまだ残っています。ここから地図とにらめっこして道路を進んでいきましたが、この先には駐車場はなく、通り抜けもできません。わずかに待避所的になっているところで何とか方向転換・一時停車して探索へ向かいましたが、基本的には近隣住民用の道のようなので車では進入しないほうが良いでしょう。



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説明板&城址碑

狐崎氏は大槌氏の一党南部信時の文明~文亀年間に当地に来住した狐崎玄蕃を始祖とする。慶長6年狐崎の城主・荒谷肥後が葛西浪人鹿折信濃ならびに金掘らを集めて起こした一揆は伊達政宗麾下の中島大蔵信真らに鎮圧された。籠城の161人は城東の首切沢で処刑され、城を逃れた葛西六郎らも鵜住居水海で殺された 葛西塚と称する墓碑7基が残る。狐崎城は釜石市浜町1丁目、市街地を眺望する丘陵上にある。三方が海に面した断崖からなる要害の地である。本丸・二の丸が残る大手口は釜石湾に面した館の下、搦手は釜石小学校近くの荒屋敷である。標高は120.7m。(城郭大系参照)


狐崎舘狐崎城 〔所在地〕大字釜石第2地割

釜石湾北側、釜石市役所北側に位置し、急峻な山の稜線上に立地する。標高は約50m〜120mで、古くから城跡として知られている場所である。
頂部の平場が主郭(本丸)と考えられ、北側の山稜との間に空堀りが設けられている。また、主郭から釜石湾に向かって伸びる稜線上に二の丸と呼ばれる平場がある。北側の山稜を背にし、東西南方は断崖となっており、典型的な山城となっている。湾に面した南側が大手といわれ、舘の下という呼称が残る。また、西側の釜石小学校が搦手といわれ荒屋敷と呼ばれている。

狐崎城の築城年代や築城者についてははっきりと分かっていないが、阿曽沼氏の家士で釜石地方にいたものとして「柏舘新五右衛門居甲子村柏舘、野舘宮内居釜石村八幡舘、狐崎玄番居釜石狐崎舘、後移附馬牛村」と記述されていることから、元々は狐崎玄番の城跡であり、築城者も同様で、築城の時期については室町時代中頃(応永年間~文亀年間)と考えられている。その後、慶長6年(1601)まで資料に乏しくはっきりしていない。

関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601)に狐崎城を中心とした釜石一揆が惹起している。「慶長六年七月七日、狐崎落城す。南部領閉伊郡釜石邑狐崎の城主、阿曽沼氏の臣荒谷(新谷とも書く)肥後、葛西の浪士鹿折信濃及び金堀等を集め、一揆を起こし狐崎城に盾籠る。中島大蔵信真は、正宗の命を奉じて退治向かう。時に磐井郡東山の民長白石豊後も一族十五騎、歩卒三百人を率いて信真に属す。岩出山城よりも旗本の士卒相加り、狐崎城を攻め抜き籠城のもの百六十一人を虐殺し、注文を以て捷を示達する。」とある。当地は南部藩と伊達藩の藩境付近であり領土問題が複雑に絡んでいると考えられている。この一揆を平定したのは伊達藩であったが所領は南部藩となった経緯がある。

(岩手県教育委員会1986)
(釜石市教育委員会1981)
(釜石市誌編纂委員会1960)
(釜石市誌編纂委員会1977)等参照


説明板にも上記とおおむね同様のことが記されています。山上の郭は整備されていないようなので、そこそこの城マニアの方でも城址碑だけでも撮影できれば十分と思われます。私的にはむしろ城址碑のほうが重要度が高いくらいなのでなおのことこれで満足。



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城址碑を撮影して撤収・・・と思ったのですが、思わせぶりに奥へ続く道があるので、なんとなく霧雨の中登って行ってみました。しばし登ると虎口風のクランク(後世のものかな)があったりしてそれなりに城っぽい雰囲気を感じましたが、その先には人家が現れたので、そこで引き返しました。途中山に分け入る脇道もあったりしてついでに探索したりしましたが、全体像がさっぱりわからないのにうろうろしても時間の無駄と思い直し、こちらも短時間で撤収。後日情報を集めると、このあたりの山はクマ等が出るとのこと。私が探索した範囲は人家に近いところだったのでまだ危険は少なかったでしょうが、主郭のあたりはクマが出てもおかしくはないようで、霧で視界の悪い早朝の探索など最もリスキー。



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城址碑そばにある狐崎稲荷社



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南側から。左下に見える青い看板は「津波避難場所」を示すもので、この看板の矢印通りに進むと中腹の城址碑・狐崎稲荷社まではすぐに到達できます。車で訪問の際はこの付近に駐車するのが良いと思われます。



所在:岩手県釜石市浜町1、釜石第2地割
評価:★☆

主郭部分まで確認したわけではないので仮評価。凄惨な歴史を持つこの城も、現在は津波から人々を救う場所に指定されています。3.11の時は城の断崖のすぐ下まで津波が到来したといい、この場所に避難して助かった人もいるのでしょう。城の役割というものを考えさせられたところです。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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