FC2ブログ

記事一覧

鍋倉城② ~もう一つの「女城主」~

三の丸でのおじさんとの歓談で時間を消費し、現時刻は16時を回っています。この時期ならまだ2時間半は有効探索時間が残されていますが、この後見学予定している市立博物館の閉館時間が気がかりなので、ここからさらにスピードアップ。まずは残された本丸・二の丸の見学へ。三の丸からは本丸へ登る階段(大手口)がありますが、時間節約のため(あと暑いのでw)車で移動。結果論になりますが、二の丸はともかく本丸はここから直で階段を登ったほうがはるかに早く着きました。



CIMG0319.jpg
本丸と二の丸の間の堀切

現地説明板表記では「割堀」。ここを奥へ進むと本丸下を迂回して沢里屋敷経由で南部神社まで降りることができます。ここからまずは左手上の二の丸へ。



CIMG0321.jpg
二の丸址

遠野南部家一族の新田小十郎の屋敷があったところ。二の丸は柵で囲われ、門は四ツ足門であったという。昭和48年、遠野南部家代々の墓所を大慈寺から移し祀られています。

二の丸と本丸の間には先ほどの割堀があるので直で行き来できません。再び堀割地点まで車で戻るも、駐車スペースなし。やむなく分岐のわずかなスペースに車を置きダッシュで本丸へ。これなら三の丸から普通に登ったほうが楽だった。



CIMG0324.jpg本丸
CIMG0325.jpg CIMG0327.jpg

鍋倉城は天正年間(1573~1591)に阿曽沼氏によって築城され、寛永4年(1627)に青森県八戸市から南部氏が入城し、明治2年(1869)までその居城となった。本丸には遠野南部氏の屋敷があった。本丸は矢を射る小窓を切った板塀で囲まれ、表門は四ツ足門であった。屋敷の建物は南北に長く、玄関には平たい小石を敷き詰め、屋根は萱葺き(一時は柾葺き)であった。敷地には八幡社や蔵、庭などもあった。鍋倉城は来内川を天然の内堀とし、二の丸・三の丸に重臣の屋敷を配し、馬場や火薬庫を設け、空堀、水溜堀などの防御施設を備えた中世の名残を伝える本格的な山城である。(説明板参照)




CIMG0328.jpg
本丸内からは様々な遺構が検出されています。



CIMG0333.jpg
本丸館跡

鎌倉時代初期より阿曽沼氏の本拠であった横田城は洪水の被害に遭いやすかったため、天正年間のはじめの頃、阿曽沼広郷が横田村(松崎町)の横田城から鍋倉山に新城を築いて移り、旧居城の名前を継承して横田城と称した。一日市町と多賀里にあった六日町を移転させて城下の町屋の中心にしたといわれる。

天正18年(1590年)、小田原不参によって阿曽沼氏は領主権を没収され南部氏配下となり、天正20年(1592年)、「諸城破却令」には「横田 破 信直抱 代官 九戸 左馬助」とあったが、慶長5年(1600年)の阿曽沼一族内訌によって、遠野は南部氏の領するところとなり、破却はまぬがれた。

阿曽沼氏の旧領の内、横田城代として内陸部を上野・平清水両氏を知行させ、海岸地帯を大槌氏、田瀬を江刺氏に分知させた。城代の平清水氏は元和元年(1615年)刑死し、ついで、上野氏が同7年に病死すると、遠野奉行の毛馬内三左衛門を横田城代として赴任させたが、治安の乱れが続いたため、南部利直は、寛永4年(1627年)、治安維持と仙台領との境目警護を理由に、八戸直義を八戸根城から横田城へ陸奥国代として領内の独自の裁量権を認められて入部させて、横田城を修復して鍋倉城と改め、当城を領内統治の拠点とした。

城下町は横田村地内に形成され、通称「遠野城下」と呼ばれたが、一国一城令以降は城ではなく館の呼称が正式であり、「要害屋敷 閉伊郡横田村 遠野」とされていた。

明治2年(1872年)に廃城となった。現在は、鍋倉公園として整備されている。(wiki参照)




CIMG0330.jpg
搦手門跡

本丸裏門。下っていくと空堀を抜け西門に至る。門の下方には井戸が二つあったといいます。



CIMG0335.jpg
旧搦手門跡

阿曽沼氏時代の搦手門。こちらは山上から下っていく車道の途中で見つけたもの。



CIMG0396.jpg 
CIMG0399.jpg CIMG0400.jpg
南部神社

城の北面下、鍋倉公園の入口にある神社。創建は南北朝時代。



CIMG0401.jpg
城の前面を流れる天然の堀・来内川にかかるその名も「おおてばし」。山上は中世的な要素が濃いですが、麓に関しては近世の城下町の雰囲気が多分に残っています。




所在:岩手県遠野市遠野町
評価:★★★☆

山上部分を駆け足でめぐりましたが、規模が大きい山城でほかにも多くの郭があり、時間をかければいくらでも見どころを見つけられそうです。随所に案内表示が設置されており、整備状況が良好なことも高ポイント。タイトルにある通り、この城は八戸(南部)直義が入封した際に養母の清心尼が統治を補佐し、直義が盛岡在住の際は清心尼を中心に政治が行われたという話が残っています(「清心尼公の碑」参照)。今後「おんな城主」としての逸話を掘り出すこともできるかもしれませんね。

関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

10 | 2019/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: