FC2ブログ

記事一覧

豊田館 ~藤原経清・清衡親子の館~

下河原館からr8で北上川を渡ります。この近くには前回探訪した岩谷堂城や「えさし藤原の郷」などもありますが、新規登城を優先させるためそちらには向かわず。杉の町交差点を直進し、r156との分岐点へ。その交差点の北東に位置するのが豊田館になります。



CIMG0120sa.jpg CIMG0120sb2.jpg
左手の高台が館跡             「←碁石海岸83㎞」!?

西側下の道路から見ると館跡が台地の先端部分を占めていることがよくわかります。それとは別に、この場所にあった青看板の表示。碁石海岸って大船渡市にあるあれでしょ。こんな内陸地点から案内表示が出ているなんてびっくりですよ。



CIMG0121.jpg 
CIMG0122.jpg CIMG0125.jpg
豊田館入口。無料駐車場完備。猛暑なので日陰スペースがないのが厳しかったがやむなし。駐車場にはほかに男性2人組がいて、一般人とは異なる気を発していたので(笑)はじめ同好の士かなと思ったのですが、スマホ片手にうろうろしていてどうも動きがおかしい。あっ、あれか。ポケモンGOってやつか。ちょうど3週間くらい前(2016年7月上旬)にリリースされたってニュースやってたなそういえば。私はそのアプリにはまったく興味がない(というかスマホ持っていない)のですが、これからは各地の史跡とかでこういった人たちと遭遇するのかな。なんかめんどいなあ。

館跡は歴史公園として整備されており、藤原経清・清衡親子のゆかりの地としてのPRもされています。石碑が建ち並ぶ一角には「餅田分教場跡」の碑もあります。この辺りは餅田地区と呼ぶらしく、周辺案内図には「五位塚」をはじめとした多数の史跡が記されていました。



CIMG0128.jpg 
CIMG0129.jpg CIMG0130.jpg
上段平場。特に遺構というものはなく、暑いのでできるだけ日陰を通りながら散策(笑)。愛宕神社跡から段下を眺めると台地の先端部分に立地しているということが実感できます。



CIMG0132.jpg CIMG0133.jpg
愛宕神社                 藤原清衡公生誕の碑

CIMG0136.jpg CIMG0137.jpg
説明板                  想像図

豊田館は、亘理権太夫藤原経清とその子清衡(平泉藤原氏初代)の館であった。

経清は、田原の藤太と呼ばれた藤原秀郷の子孫といわれ、初め宮城県亘理地方を支配する国府の官人であったが、後に奥六郷の主・安倍頼時の娘婿となり、豊田館に住まいした。

平安朝廷と安倍氏の戦いである「前九年の役」で、経清は初め朝廷軍の将、源頼義・義家父子の麾下に属したが、途中から義父安倍頼時に味方し、源氏とこれを援ける秋田の清原氏の連合軍と戦い、最後は厨川柵で敗れ処刑された。時に康平五年(1062年)、清衡7歳であった。母は清衡を連れて、敵将清原武貞の後妻となった。

20年後、清原氏の内訌から起こった「後三年の役」に、義家の援けをうけて勝ち残った清衡は、豊田館に帰り奥羽を治めたが、康和年間(1099~1103年)に平泉へ移り、藤原四代の祖となった。

安永三年(1774年)銘の石碑に、ここが藤原経清・清衡父子の館跡であり、付近に舟橋の地名や、高永寺跡、延喜式内の鎮岡神社、白旗の池があると刻まれている。(説明板参照)




CIMG0135.jpg
豊田城址碑

仙台藩儒田辺希元撰の碑。安永3年(1774年)の建立。

この地也、東西五十七歩、南北三十九歩、昔、亘理権太夫経清の城であった。経清、平泉の役で戦死し、其の子権太郎清衡、勤王の勲功があったので、奥の六郡の領主としてここにいた。其の当時、北上川は豊田城のあたりを流れていて、浮梁(舟橋)という地名が今ものこっている。東北の方角に高水寺の跡があり、東南に鎮岡神社と白旗の池があって、これらのことは「封内風土記」に詳しく書いてある。年を経るにしたがい土地の人でさえ忘れられるので、この碑を建て後の世まで伝えるものである。(碑文内容・現地説明板より)



以下の記述はいわて医師協だよりより。

清衡は、藤原の父と安倍の母の間に豊田城で生まれた。父は重傷を負い敵将の前に引き出され、切れない刀でゆっくりゆっくり妻子の目の前で首を刎ねられる。母は清衡を連れて敵将と再婚、敵将の先妻の子眞衡と、敵将と母の間に新しく生まれた家衡と、この3人が絶対うまく行く訳なく、果して家衡は豊田城に清衡を襲い妻子を惨殺する。誠に数奇な運命を辿ったが、彼は復讐を捨てて、亡き戦没者を弔うべく平泉に移り絢爛豪華なる中尊寺を建設するのである。

前九年の役では頼時亡き後も安倍一族が貞任を中心に一致団結、刀折れ矢尽きる迄戦い抜いたのには心が打たれる。康平6年、藤原経清、安倍貞任、安倍重任の首が京都に送り届けられた。都はそれを見ようと大変な人出であったという。この首を貰い受け豊田城の東南、五位塚に清衡が父の遺骨を葬った古墳がある。毎年9月17日命日に土地の人々が集まり墓参している。

後三年の役後、都では陸奥守源義家が清原一家の内訌にかかわり過ぎたとして其の任を解かれ、清衡の王者到来の大舞台が整ったのである。


これを読んで興味をもった方は藤原経清藤原清衡のwikiへ飛ぶべし。



所在:岩手県奥州市江刺区岩谷堂下苗代沢
評価:★★

遺構は特にありませんが、歴史性の高さが高ポイント。時代が違うところを比較するのもあれですが、清衡とその周辺は戦国時代のどの武将よりも魅力的に映ります。豊田館は清衡が平泉に拠点を移した後も平泉館など奥州藤原氏の5館の一つとして政庁的な機能をもっていたと推測されています。ちなみに記事で少し触れた「えさし藤原の郷」ではこの豊田館が「経清館」「清衡館」の名で推定復元されています。興味のある方はぜひ立ち寄ってみましょう。

関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

10 | 2019/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: