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胆沢城② ~坂上田村麻呂と阿弖流為~

外郭南東隅から西へ進路を変え、奥州街道と交差する手前で説明板発見。



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厨地区 

外郭南門の北東に置かれた厨(くりや)とはいわゆる厨房施設。説明板には「胆沢城の給食センター」という表現がされています。井戸を中心に建物が「コ」の字型に配列されており、この構造は平城京の大膳職と基本が一致しているとのこと。

この場所から北へ進むと「東方官衙地区」に至ります。



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政庁地区の城址碑

城の表示物は随所にありますが、見つけた中で一番立派な石碑はこれ。前回探訪時に一番初めに車を停めたのがこの場所で、前回はここで政庁地区を見学して写真を撮ってから赤鳥居へ向かい、さらに奥州街道を北上して金ヶ崎城に向かったのでした。結構見落としがあったな。



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探訪マップ

胆沢城について、以下wikiより。

文献上の初見は『日本紀略』にあり、坂上田村麻呂が802年(延暦21年)1月9日に陸奥国胆沢城を造るために征服地に派遣されたことを伝える。征夷大将軍の田村麻呂はこれにより造胆沢城使を兼任した。11日には東国の10か国、すなわち駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、信濃国、上野国、下野国の浪人4,000人を胆沢城に配する勅が出された。おそらくまだ建設中の4月15日に、田村麻呂は蝦夷の指導者アテルイの降伏を報じた。

新征服地の城としては、翌年これより北に志波城が築かれた。志波城の方が規模が大きいので、当初はさらなる征討のため志波城を主要拠点にするつもりだったと推測されている。しかしまもなく征討は中止され、志波城はたびたびの水害のせいで812年(弘仁3年)頃に小さな徳丹城に移転した。これによって後方にある胆沢城が最重要視されるようになった。

9世紀初めに鎮守府が国府がある多賀城から胆沢城に移転した。その正確な年は不明だが、早ければ建設と同時の802年、遅ければいったん志波城におかれたとみて812年となる。『日本後紀』の808年(大同3年)7月4日条から、この時既に鎮守府が国府と離れた地にあったことが知れるが、それが志波か胆沢かまではわからない。移転後の胆沢城は陸奥国北部、今の岩手県あたりを統治する軍事・行政拠点となった。

815年(弘仁6年)からは軍団の兵士400人と健士300人、計700人が駐屯することになった。兵士は60日、健士は90日の交替制によって常時700の兵力を維持した。これ以前には他国から派遣された鎮兵500人が常駐していた。初めから500人だったか、別の改正を経て500人になったのかは不明である。

9世紀後半になると、その権威は形骸化していった。




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政庁地区説明板

発掘調査によれば、総面積はおよそ46万m2で、外側から幅3-5mで深さ1-1.5mの堀があり、築地(ついじ)と呼ばれる高さ3.9mの土で固めた築地塀の内側にもまた堀をもつ、二重の堀による外郭線で囲まれている。その内部には中央部に90m四方の政庁があり、これもまた外壁を伴う。また正門の外郭南門(がいかくなんもん)から北に伸び、政庁前門と政庁南門の2つの門がある。(wiki参照)




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妖怪遺跡ガイダンスポスト。政庁地区の説明資料が入っているという。これはぜひとも入手せねばとポストを開けると右の表示。もうこのパターン何度目かと。この後埋蔵文化センターに立ち寄るつもりだから別にいいですけど。



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政庁前門跡

外郭南門と政庁南門の間にある門で、正面12.4m×奥行5mの十二脚門であったという。南大路から政庁正殿へ行くには外郭南門→政庁前門→政庁南門と3つの門を通らなければなりませんでした。



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政庁地区

胆沢城の中心施設。90m四方の塀の中に「正殿」が、東西に「脇殿」が配列されていました。



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政庁正殿跡

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復元図

正殿身舎(おもや)は東西18m×南北12mの瓦葺建物で、柱は朱塗り、壁は漆喰、緑の連子窓を用いられていたとされます。建物内部は土間で、机やいすを使用していました。南には最大5mの廂(ひさし)の間があり、重要な政治や儀礼を行う空間でありました。

さて、ここで胆沢城の築城者であるかの有名な征夷大将軍・坂上田村麻呂について触れておきましょう。

坂上田村麻呂は天平宝字2年(758年)に坂上苅田麻呂の次男または三男として生まれた。田村麻呂は近衛府に勤仕した。

田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており(蝦夷征討)、延暦8年(789年)には紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり、延暦11年(792年)に大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、翌延暦12年(793年)に軍を進発させた。この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は4人の副使(副将軍)の1人ながら中心的な役割を果たしたとされる。

延暦15年(796年)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職を全て合わせ、加えて翌延暦16年(797年)には桓武天皇により征夷大将軍に任じられた。延暦20年(801年)に遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。

いったん帰京してから翌21年(802年)、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥に戻り、そこで阿弖流為と盤具公母礼ら500余人の降伏を容れた。田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の貴族は反対し、2人を処刑した。延暦22年(803年)には志波城を造った。

延暦23年(804年)に再び征夷大将軍に任命され、3度目の遠征を期した。しかし、藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた。
以下略(wiki参照)


もう一人、アテルイ(阿弖流為)について。

アテルイ(? - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。789年(延暦8年)に胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて処刑された。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代では「アテルイ」と呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。本名は大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。

アテルイは、史料で2回現れる。一つは、巣伏の戦いについての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。

史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。

征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。

この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村(現在の岩手県奥州市水沢区)に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。

その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたとされる。田村麻呂は802年(延暦21年)、胆沢城を築いた。

『日本紀略』には、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。2人は田村麻呂に従い7月10日に平安京に入った。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、8月13日に河内国にてアテルイとモレは処刑された。(wiki参照)




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政庁地区の見学後、上に掲載した「探訪マップ」を見て「三代清水」と表示されているところにも足を運んでみました。その①の外郭北西隅分岐のところでも「三代清水」の案内表示は出ていましたが、その時はスルーしてしまいました。また赤鳥居から同じ道を進み、分岐から三代清水方向へ進むと車が進めない道になってしまい、やむなくぎりぎりのところで停車。そこから徒歩で少し進むと三代清水の表示を発見。



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三代清水

この湧き水は、国指定史跡胆沢城跡の北西角に位置し、802年に胆沢城を建立した坂上田村麻呂将軍、前九年の役(1051~62)で陸奥の豪族安倍頼時・貞任を討った、源頼義将軍、源義家公の三代の飲用により命名されたと伝えられています。 
胆沢城があったころは、ここで暮らす人たちの飲用水であったに違いありません。昭和20年頃までは、生活用水として使用されていました。(説明板参照)




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英雄たちが飲んだ水

今もきれいな水が湧いています。超が付くほど名高い英雄たちが飲んだ水、私も飲んでみたかったのですが、説明板の表記では現在も飲用に適しているかどうか不明だったので自重しました。



所在:岩手県奥州市水沢区佐倉河渋田
評価:★★★☆

古代城柵、当然ながら中近世の城とは雰囲気が違います。あくまで私的な感覚ですが、古代城柵のほうが格が高い気がしますね。格という言葉が妥当でないとすれば、ロマンという言葉に言い換えましょうか。ロマンあふれる場所に立つと、普段は重視している遺構面や縄張り面などは些末なことに思えてしまうのです。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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