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胆沢城① ~陸奥国鎮守府~

鳥海柵の南東2kmほどのところに位置する胆沢城(いさわじょう/いさわのき)。前回の第1次遠征では徳丹城志波城(ともに岩手)、秋田城城輪柵(山形)といった古代城柵を巡っており、その際にここ胆沢城も探訪済みとなっています。特段の事情がないかぎり再訪は極力しない主義ですが、写真消滅の件もあり、今回走行ルート上に重なったのをいい機会として前回見落とした部分も含めて改めて見学しました。



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赤鳥居と鎮守府標柱

この赤鳥居覚えています。前回も奥州街道(R4旧道)沿いのこの場所で写真を撮りました。

御船のゲームをしている人は鎮守府というと「日本海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した機関」という認識でしょうが、古代における鎮守府とは以下のようなものです。

鎮守府(ちんじゅふ)は、陸奥国に置かれた古代日本における軍政を司る役所である。その長官である将軍の名が729年(天平元年)に初めて見えることから、奈良時代前半には鎮守府相当の機関が東国のいずれかの地に設置されたものと推測される。長である鎮守府将軍の職位は五位から四位相当である。

一般的に、鎮守府の前身は『続日本紀』に見える「鎮所」(ちんじょ)であり、陸奥国府があったとされる多賀城付近に併設されていたものと推測されている。そして802年(延暦21年)に坂上田村麻呂が胆沢城を築城し、この時に鎮守府は胆沢城に移されたと言われている。(wiki参照)




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一直線に伸びる西外郭線


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同じく西外郭線


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外郭北西隅                分岐

赤鳥居から西外郭線に沿って真っ直ぐ北上すると外郭北西隅の分岐。ここには「追分石」と呼ばれる石もあります。随所に案内表示があり、その案内矢印の柱部分には現在地の名称が記されているのがありがたい。何せ城域が広大なうえに平坦な地形なので、何も表示物がないと現在地を認識するのがなかなか大変になることでしょう。



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北外郭線                 外郭北門跡付近

北の外郭線も一直線。待避所がある場所以外では車のすれ違いは不可。北外郭線の中央にあった外郭北門は外郭南門・政庁正殿を結ぶ延長線上に位置し、正面8.5mの八脚門であったといいます。



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遥か彼方に政庁地区。その手前に北方官衙地区があります。ひたすら広大。



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城の北東には鎮守府八幡宮があります。立ち寄るにしても、炎天下のため車は日陰に駐車するのが至上命題。南方戦線の日本兵さながらに日除けのタオルを巻き、その上から麦わら帽子をかぶるという不思議スタイルに変身し外へ。暑いぞ。岩手でこの暑さなら、日本一の灼熱地帯である我が地元グンマでは今ごろ普通に40℃越えとるだろうな。



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鎮守府八幡宮

当宮の御神は国家を鎮護し学問産業経済を盛んにし、災難を消滅させ人の一生を守り給う八幡大神と申し御神体は最霊石という霊石です。御祭神は應神天皇(誉田別尊)神功皇后(息長帯姫命)市杵島姫命の三柱の神に坐します。

桓武天皇 延暦二十年(801年)坂上田村麻呂をして東奥鎮撫のとき当地に胆沢城を築き、鎮守府を置き、城の北東の地に豊前国(大分県)宇佐八幡神の神霊を勧請し、神宮寺の安国寺とともに鎮守府八幡宮と号し東北開拓経営の守護神となられました。国家の崇敬厚く弘仁元年(810年)嵯峨天皇より宸筆の八幡宮寳印をたまわりました。

嘉祥三年(850年)当宮別当職円仁(慈覚大師)は宮と宮附属の安国寺にて最勝王経を講じ、修正会、修二会、放生会、八講等の諸祭をおこない、これを恒例としました。天慶三年(941年)藤原秀郷は平将門征討のおり、当宮に神領ならび神剣を奉納し戦勝を祈願しました。(鎮守府八幡宮HP参照・以下同じ)




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鎮守府八幡宮

康平五年(1063年)源頼義また源義家は鎮守府将軍として当宮に戦勝を祈願しました。治承元年(1177年)奥州平泉藤原氏は当宮を尊崇し十六羅漢像をはじめ社殿の造営、広大な神領、数多くの神宝を奉納し厚く崇敬しました。文治五年(1189年)源頼朝は殊に欽仰し当宮を第ニ殿と号し全神事ことごとく鎌倉幕府の御願とし、陸奥出羽両国の所済物(税)をもって盛儀諸祭を執行しこれを恒例としました。中世には奥州伊澤八幡宮とも称され奥州総奉行の葛西氏や葛西氏の重臣、柏山氏の崇敬をうけました。

建武三年(1336年)北畠顕家は鎮守府将軍として祈願参拝しました。延元二年(1337年)南北朝騒乱の兵火に遇い壮麗を極めた社殿群や多数の神宝什物はことごとく廃塵に帰しました。貞和四年(1348年)北朝奥州探題吉良貞家は胆沢、江刺、和賀、気仙、斯波の五郡の棟別銭をもって南北朝騒乱期に焼失した社殿群を新に造営再建しました。明徳元年(1390年)天台宗我等山安国寺を修験道に改めました。天正十九年(1591年)豊臣秀吉も厚く崇敬し浅野弾正長政をして社殿の造営と多数の境内社の修造をおこない広大な境内地の神領を安堵しました。

江戸時代には仙台藩伊達氏の厚い保護を受け仙台藩筆頭の八幡神として崇敬せられ寛永六年(1629年)寛文二年(1662年)貞享二年(1685年)元禄七年(1694年)宝永六年(1709年)享保二年(1717年)には藩費をもって社殿の造営修復をしました。寛永十四年(1637年)伊達正宗の正室愛姫は慶長洪水のため決潰した社地の修造と社殿を現在地に遷座しました。文化八年(1811年)藩主、藩士、仙台城以北奥七郡四〇六ヶ村の大肝入、肝入、検断、村々の総勧化(寄付)をもって現社殿を造営しました。




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鎮守府八幡宮

当宮は奥州街道沿いに鎮座することもあって、街道を往く幕府巡見使や仙台藩主、盛岡藩主さらに幕末には函館奉行所へ赴任する幕府役人を始め近藤重蔵など歴史に名を残している者が多数参詣しています。

明治九年(1876年)明治天皇は東北御巡幸のみぎり、右大臣岩倉具視、宮内卿徳大寺實則、内閣顧問木戸孝允を遣わして御代拝あらせられました。大正十一年(1922年)県社に列しました。

数ある神宝のなかで特に嵯峨天皇宸筆の八幡宮寳印、坂上田村麻呂奉納の宝剣と鏑矢、源義家奉納の御弓、伊達氏奉納の太刀などがあります。江戸時代の紀行家菅江真澄も当宮を参詣し最霊石や宝剣と鏑矢を拝し、その絵を残しています。




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外郭北東隅                外郭外溝痕跡

城の北東隅の林の中を覗くと土塁らしきや堀らしきの地形が残ります。この後「埋蔵文化財調査センター」で入手した資料によると、この場所が北東隅櫓想定地となっています。このほか城の北東部の「字北館」地内には櫓跡・築地土塀跡などが想定されています。



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「字祇園」分岐              外郭南東隅

東外郭側。外郭のさらに外側(東側)には「九蔵川口」「牛頭天王社」などがあります。そのまま南下して外郭南東隅へ。ここから外郭南門跡へ向かいます。


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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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