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大西城 ~阿波国守護の居城~

白地城を後にし、池田大橋で吉野川を渡り三好市の中心エリア・池田町ウヱノ地区へ。



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池田高校                城址碑!

先人たちの記録を見ると「高校野球で有名な池田高校」と記している方が多いのですが、私的にはあまり実感できないところ。昔は甲子園の常連だったみたいですね。この日は「祝レスリング全国大会出場」の垂れ幕が掲げられていました。
池田高校から東に進み、池田中学校・池田幼稚園が建っているあたりが城の中心部のようで、幼稚園の前には城址碑があります。現地表記は池田大西城ですが、各種城サイトの表記に合わせ本項では大西城として掲載します。ちなみに大西の名称の由来は阿波国の最西端に位置したとこからだとか。

池田町市街地の北側、吉野川に面する約30mの高さの上野台地上に位置し、現在の諏訪神社、池田幼稚園、池田小中学校あたりまでの範囲で方形の構造であったと見られている。



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幼稚園下の残存石垣

池田大西城は承久3年(1221)阿波の守護として信濃の深志(現在の長野県)から来た小笠原長清によって築かれ、400年に余って繁栄したが、寛永15年(1638)江戸幕府の一国一城制により廃城になった。
この石垣の積み方は野づら積みといわれるもので、昭和54年幼稚園改築の際、北側に埋蔵して保存し、東側はコンクリートの下から一部観察できるようにしている。(説明板参照)


承久3年(1221年)、承久の乱で功績をあげた小笠原長清が阿波国守護に任ぜられ、その息子である小笠原長経が守護代として入国した。長経は大西城を築城し、承久の乱で後鳥羽上皇側についた前守護佐々木氏の本城である茶臼山城を攻め、これを滅ぼした。大西の地は阿波の西端に位置するが、讃岐、伊予、土佐と境を接し交通の要所であると同時に、四国全体の中央付近に位置する。小笠原氏は将来四国全土の守護になることを見据えて、この地に主城を築いたとする見方もある。

南北朝期は、当初南朝方として戦っていたが、大勢不利となって細川氏に服した。その後小笠原氏は三好氏に改姓して勝瑞城に移り、大西城には一族である大西氏が入った。

天正13年(1585年)、蜂須賀家政が阿波国の領主となり、阿波九城の一つの支城として整備した。牛田氏、中村氏が城代として入ったが、1638年(寛政15年)一国一城令により廃城となった。(wiki参照)




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城郭並木                御嶽神社

城郭並木は藩政時代の名残をとどめるもの。一国一城令により廃城となった後、城跡には徳島藩三好郡代所が置かれていたといいます。神社の南側は天然の切岸でかなりの急崖となっており、その先に池田の街並みが広がっています。



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池田小学校を経て、台地の東側先端・諏訪神社下より。このあたりまでが城域であったと考えられています。



所在:徳島県三好市池田町ウヱノ
評価:★★

北を吉野川・南を急崖に挟まれた地形や、「四国の十字路」といえる立地条件など、城を築くにはうってつけの場所です。この周辺地域一帯を治めるなら私でもこの地に城を築くことを選びたくなるでしょう。遺構は少ないですが、かつての雰囲気を留めているところは高評価。「山上にある平地城館」のような面白い印象を受けました。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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