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碓氷峠の新発見の山城(机上調査編)

以下東京新聞web版記事

碓氷峠で「山城」発見 豊臣軍の陣城跡か 2017年5月13日

安中市松井田町峠の碓氷峠で、戦国時代後期に豊臣軍が麓方面の松井田城を攻める際に布陣したとみられる山城(陣城)が発見された。山城を調査した県教育委員会文化財保護課の飯森康広係長らが、山城との関連を示す古文書の記述を踏まえて判断した。一時的な軍事拠点となった陣城が県内で見つかるのは珍しい。昨年の大河ドラマ「真田丸」で話題となった真田氏の武将たちが一帯に布陣した可能性が高く、歴史ファンの注目を集めそうだ。 (菅原洋)

この山城は長野県境の民有地にあり、近くを調査をした軽井沢町教委の職員から、昨年六月に飯森係長へ情報提供があった。群馬県の中世城館跡調査ではこれまで把握できておらず、その後の調査で学術的に未確認の山城と判明した。

山城の位置は熊野神社から東へ約二百五十メートル。長さ約二百メートル、幅約百メートルの楕円(だえん)形状で、旧中山道沿いにある。遺構の残存状態は良く、最高部の高さ約五メートルの「土塁」や、平均で幅約七メートル、深さ約三メートルの水がない「空堀」が残っている。

空堀などに囲まれた平地の「郭」には、出入り口を土塁で守る「枡形(ますがた)虎口」という遺構もある。城に登ってきた敵兵が斜面で横へ移動するのを防ぐ「竪堀」が六本も確認され、県内の山城では珍しい。

この山城から麓の南東へ約十三キロには、松井田城がある。同城を巡っては、豊臣秀吉が小田原城(神奈川県)の北条氏を攻めた際、その一環として計約三万五千人という真田昌幸、上杉景勝、前田利家の連合軍が押し寄せた。真田軍には昌幸の長男信之と、大河ドラマ主人公の次男信繋(のぶしげ)(幸村)も加わっていたという。

長野県宝に指定される「真田家文書」の中に、昌幸が一五九〇(天正十八)年に秀吉近臣の石田三成らに宛てた書状の案があり、「信幸(之)が緒戦で碓氷峠から百三十余人を連れて松井田城を偵察に行き、敵兵七百、八百騎と交戦した」との記述がある。

さらに、北条氏直が同年に重臣で松井田城代の大道寺政繁に出した戦功をたたえる文書の感状にも「敵兵が碓氷峠へ戻るところへ追い打ちを掛け、討ち取った」ともある。

飯森係長は「豊臣軍の攻撃は落城までの約一カ月間で再三にわたり、戦略上で重要な旧中山道と兵たんの補給拠点を確保するため、布陣する城が碓氷峠に必要だったのは間違いない」とみている。

首都圏の山城に詳しい江戸東京博物館の斎藤慎一学芸員もこの山城を現地調査し、豊臣軍の陣城との見解を示しているという。

松井田城は安中市史跡に指定され、武田氏や北条氏が修築した堅城。しかし、豊臣軍の攻撃を受けた際に守備兵は推定で約千騎しかおらず、落城後に政繁は秀吉に切腹させられた。



もう一つ、産経新聞web版

碓氷峠の土塁、「小田原合戦」豊臣軍城跡か 築城者は?保存状態も良好 群馬

産経新聞 5/13(土) 7:55配信

碓氷峠の木立の中に広がる土塁は「小田原合戦」の舞台だった。群馬、長野県境で見つかった城跡は豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条方が籠もる松井田城の攻撃拠点となった「陣城」の可能性が高いことを12日、県文化財保護課の飯森康広さん(55)らが明らかにした。昨年夏、地元からの情報提供を受け調査を続けていた。築城者の候補には秀吉配下の前田利家、上杉景勝、真田昌幸らそうそうたる大名の名が上がる。

周囲は江戸期の文献に城跡として記されていたものの、その後埋もれていた。城の性格や築城の経緯が明らかにされたのは初めて。

城跡は碓氷峠から安中市側に約250メートルの旧中山道沿いに位置し、東西約200メートル、南北約100メートルの小規模なもの。城内には土塁や堀のほか、敵の侵入を防ぐために曲がり角を設け複雑にした出入り口「枡形虎口(ますがたこぐち)」の跡が残っている。

土塁は、大小さまざまだが、最大で高さ6~7メートルと小ぶり。堀や壁面の高さも低く、整地が甘いことなどから飯森さんは「籠もるための城ではなく、臨時に作った陣城と考えられる」。

また、城が長野県側から群馬県側に向けて作られていることや、戦国期の記録をたどった結果、天正18(1590)年、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原合戦の際、北国勢が築いた可能性が高いとみられる。

当時、北国勢は北条氏の家臣が守る松井田城を約1カ月かけて落としたが、飯森さんによると、その前月には北国勢が松井田城下に偵察に入っていた記録も残っている。松井田城を落とせるかどうか、緊迫した状況下にあったとみられ、飯森さんは「北条と豊臣の息づかいを生々しく感じる。豊臣軍が、万全の態勢を整えて戦に挑んだことが伝わってくる」と話した。

飯森さんと視察した江戸東京博物館(東京都)学芸員の斎藤慎一さん(日本中世史)は「大名たちがどのように城を守ろうとしていたのかがわかる貴重な発見。保存状態も非常に良い」と話している。城跡から松井田城跡までは旧中山道で約14キロ。飯森さんは今後、北国勢が駆けた道中にも城跡を示す土塁などがないか調査する予定という。

                   ◇

【用語解説】小田原合戦

天正18(1590)年、関白だった豊臣秀吉が難攻不落とされた小田原城に籠もった北条氏を征伐した一連の戦い。松井田城のほか、山中城韮山城(ともに静岡県)など各地で合戦が行われた。松井田城攻撃は同年3~4月で、その際、前田、上杉、真田ら北国勢の兵は総勢約3万5000にのぼったとされる。



PK2017051302100083_size0.jpg
発見された山城の土塁=安中市松井田町で(web記事より)

「発見」という見出しですが、既に宮坂武男氏の著書でも指摘されていた気がします。あくまで群馬県の中世城館跡調査で未確認のものが今回特定されたということですね。

いずれにせよ少なからず興味あります。産経新聞版では高さ6~7mの土塁を「小ぶり」とか表現してるけど、山中の陣城でそれだけの高さの土塁(しかも現存)って相当大規模なものですよ。

しかしふざけているのはweb記事における場所の地図↓

PK2017051302100084_size0.jpg
おおざっぱすぎ

地図から場所の特定は不可能なので、記事中の表記(赤字の部分)を参考にして場所を絞ってみます。


碓氷峠の陣城

熊野神社から東へ約250m、かつ旧中山道沿いにあり、さらに地形的要素を考慮するとかなり絞られてきますね(記事の情報が正確なら、という注釈付きで)。

「保存状態も非常に良い」ということから、判断に困るような遺構ではなく、現地に到達すれば城マニアが見れば一目でそれとわかるようなものでしょう。また写真の男性の服装から判断するに、到達には険しい登山や猛烈な藪漕ぎなどは不要であると想像されます(あくまで想像)。そもそも兵の駐屯のための陣城なんだから要害性などよりも平場の確保のほうが重要でしょう。

ということで全国の城マニアの中で一番乗りを目指して明日早速出陣です。仮に現地で場所が特定できなかったとしても、すぐ近くにある「県境の神社」として名高い熊野神社には一度行ってみたいと思っていたので、これはちょうどいい機会です。ついでに周辺を観光してこようっと。
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コメント

No title

はじめまして。
私も山城好きのものです。新聞発表の翌日にご探訪されるとの事、一番乗りのご健闘をお祈りしております。
こちらの場所は掲示されている国土地理院地図でいえば「峠」の地名から右側の沢を挟んだ台地上です。標高1188の表記のある地点に堀切があり、そこから南東側に遺構が広がっております。
ご推察の通り藪はそれほど深くありません。熊野神社門前のお茶屋さんの力餅もぜひご賞味ください。
それでは。

Re: No title

> 鈴談さま

はじめまして。
貴重な情報ありがとうございます。そこまでご存知ということは、すでに現地踏査済みなのですね!
仰られたあたりのところが地形的に一番あやしいとにらんでおりました(笑)

お茶屋さんの力餅ですか。私は現地であまり金を使わない派なのですが、おすすめとあらば食してみるよりほかありませぬ。
結果は明日の夜にでも公開いたします。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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