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高知城下町散策

高知の城下町で見つけたその他旧跡などをまとめてダイジェストで掲載。



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致道館

参政吉田東洋が16代藩主豊範の命により 文久2年(1862)創設 始め文武館と称したが 慶応元年(1865)致道館と改称した 幕末非常事態での藩士の教育機関として 文武両道を厳しく鍛錬すると共に 西洋学術も受容した




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城西公園                旧西弘小路

高知城の搦手門(西ノロ門)から西に向かって広場があったことに由来する町名。御馬廻などの武士が多く住んでいたが、元禄11年(1698)の大火後、東の内堀沿いは杉林となり、明治時代以降、裁判所や営林署の用地となった。また、北には幕末に文武館(のち致道館)が建てられ、校舎は明治時代に入り県庁や陶冶学校(師範学校の前身)として利用された。




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江ノ口川と桜馬場

桜馬場の由来

高知城西大門から西に江ノ口川をへだてた対岸に河原があり、寛文元年(1661年)その一部を埋め立て2町33間の馬場とし桜を植えたので桜馬場と名付けられた。今回この地にちなみ橋名を桜馬場橋とした。なお藩政初期には桜馬場の西に浄土真宗の圓満寺があり、この地に橋がかけられた。橋名は後世、寺の名にちなんで圓満寺橋と称していた。その後この橋は桜馬場南端に移され、現在の円満橋となっている。




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升形公園                旧升形

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升形商店街

城下町がつくられたとき、集まった兵士の数を量るために造られた四角形の広場が、升形と呼ばれたことに由来する町名。毎年正月11日に、藩主観閲のもと行われた御馭初(一騎駆)はこの町から出発し、その起点を「乗出」と呼んだ。升形の南北に外堀と大堤を設け、番所をおいて郭中の出入りを警戒していたが、明治時代に入り堤は壊されて升形商店街などになった。


こういった旧町名案内看板は他にもたくさんあるようです。「兵士の数を量るために造られた四角形の広場」ってあるけど、普通の城郭の枡形と何か違うのかな。

写真に写っているサニーマートFCで本日の夕飯の買い出しを行いました。



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坂本龍馬誕生地

高知城下本丁筋1丁目、現在の高知市上町1丁目上町病院前に誕生地の碑は建っています。父坂本八平直足、母幸の次男として、天保6年(1835)11月15日この地で誕生した坂本龍馬は、1867年11月15日の奇しくも自らの誕生日に、京都近江屋で凶刃に倒れるまでのわずか33年の生涯にあって、類まれなる行動力と、勝海舟や松平春嶽など素晴らしい出会いを重ねることで、薩長同盟の締結や大政奉還など数々の功績を残し今も根強い人気を誇っています。龍馬の誕生日であり命日でもある11月15日には、毎年ここで龍馬誕生祭が行われています。(高知市HP参照)




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吉野朝廷(南北朝)時代古戦場跡

南北朝時代(1333-1392)の土佐は、足利尊氏の重臣である細川氏の支配下にあって北朝勢力がかなり強かったが、南朝勢力は大高坂城(現在の高知城と同一地)を本拠とした大高坂松王丸を中心に頑張っていて、両派の争いが長く続いた。やがて後醍醐天皇の皇子の花園宮満良親王、新田綿打入道、金沢左近将監らの武将が下向して加わり、南朝方は一時勢力をもりかえした。そこで北朝方はここ升形近辺にあったといわれる安楽寺に砦を築いて、大高坂城への攻撃をくり返しおこなった。一方、新田、金沢らは花園宮を奉じて潮江山(筆山)に陣をもうけ、数千騎が大高坂城を救援しようとした。その最も激しい戦いがくり広げられたのが、このあたりであったといわれる。「佐伯文書」によると大高坂城は興国元年(暦応3年・1340)に陥落、松王丸は城の西木戸あたりで戦死したといわれ、花園宮はその後西国方面へ脱出した。なお松王丸の墓はもと高知市役所敷地内の大公孫樹(銀杏)の場所にあったと伝えられ大高坂神社が建てられたが、戦災で焼失したため昭和21年に久万の松熊神社に合祀された。市役所広場には松王丸の記念碑が建てられている。


この碑の場所の奥にある神社は出雲大社の分社で、太いしめ縄が掲げられていました。



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福岡孝弟誕生地

天保6年(1835年)、土佐藩士・福岡孝順(180石)の次男として生まれる。安政元年(1854年)、吉田東洋の門下生として後藤象二郎や板垣退助らと共に師事し、その薫陶をうけた。安政5年(1858年)、吉田の藩政復帰に伴って大監察に登用され、後藤らと若手革新グループ「新おこぜ組」を結成して藩政改革に取り組む。反主流派の土佐勤皇党を弾圧するなどしたが、文久2年(1862年)の吉田暗殺によって失脚する。

文久3年(1863年)、藩主・山内豊範の側役に就任して公武合体運動に尽力する。他方で坂本龍馬や海援隊、陸援隊と提携するなど、前藩主・山内容堂を中心に藩営商社・開成館を通じて殖産興業政策を推進した。

慶応3年(1867年)、参政に就任。幕府を中心とする公議政体論を藩論とし、大政奉還の実現に向けて薩摩藩との間に薩土盟約を締結する。同年、後藤とともに将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧告し、武力討幕派の薩摩藩や長州藩に対抗した。

明治維新では、後藤や板垣らと共に徴士参与として新政府に出仕。越前藩の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した。

明治4年(1871年)、王政復古の功を賞されて賞典禄400石を授けられる。議事政体取調所御用係を経て藩の少参事、権大参事。政府内では土佐閥の一人として、司法大輔に任ぜられた。司法大輔時代の明治5年11月23日(1872年12月23日)、司法卿の江藤新平と共同で、法律で妾を持つことを禁止すべきとの建白書を提出する。しかし、蓄妾は旧来の慣習であったため、建白はいつしか立ち消えとなって採用されることはなかった。その後、元老院議官、文部卿、参議、枢密顧問官、宮中顧問官などの要職を歴任した。明治17年(1884年)、子爵を授けられる。

大正8年(1919年)3月7日、薨去。享年85。墓は、東京都豊島区染井墓地にある。
(wiki「福岡孝弟」参照)

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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