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高知城⑥ ~南海の名城~

詰門前に戻ってきました。ここからは先ほど飛ばした三の丸を経由して城の搦手口を目指すことにします。


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三の丸                 さっきの若い子たち


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三の丸御殿平面図

高知城で一番広い平面で、外周504m、南北85m、東西54m、総面積は4,641㎡ある。往事は、曲折の多い石垣の上には沢山の銃眼を設けた矢狭間塀がめぐらされ、東北角には丑寅櫓があった。また、大書院と呼ばれる広大な建物が建設され、総面積は1,815㎡もあった。この建物は、主として年頭の礼式や五月節句その他の儀式などで大勢の藩士が参集するとき使われたという。この大書院は明治維新ののち高知藩の執政府となり、次いで藩知事府から藩庁と改称された。明治3年(1870)藩庁は城西の致道館跡に移転した。明治6年、公園化に伴いすべての建物が取り壊された。現在は、入口に当たる部分に門柱の立てられていた礎石だけが残されている。公園整備により多数の桜の木が植樹され、高知の桜の開花を告げる「ソメイヨシノ」の標本木があり、花見の場所として多くの市民に親しまれている。(説明板参照)




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三の丸から見た天守



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水路遺構

高知は、雨の多い土地柄であり、高知城には排水のための様々な工夫が見られる。この水路遺構は、三ノ丸に降った雨水を集めて2か所の石樋から排水することにより、石垣内部に泥水が入り目詰まりによるゆるみが生じないよう設けられたものと考えられる。水路は、側板、蓋石で構成されており、主に砂岩が使用されている。底部は、三和土(タタキ)で塗りこめられている。蓋石を外せば、清掃が容易にできる構造となっており、土砂の流入を防ぎつつ、維持管理を可能なものとしている。大雨が降った際には、石樋の先端から水が放出されたものと考えられる。石樋部の底石には、側板を立てるための加工が施されている。(説明板参照)




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長宗我部期石垣

高知城のある大高坂山は、南北朝時代の大高坂松王丸など古くから軍事拠点として利用されていた。戦国末期、四国の覇者となった長宗我部元親は、岡豊城から、天正16年(1588)大高坂山に移り築城したが、水害などにより城下町形成が十分できなかったこともあり、天正19年(1591)に土佐湾に面した浦戸城に移転したという。この石垣は、三ノ丸石垣改修工事の事前調査として、平成12年8月から実施した石垣背後の発掘調査により確認された。その盛土から中世の遺物以外のものが出土していないため、長宗我部元親が築城した際に構築されたものと考えられる。また、豊臣家から拝領したものと推定される桐紋瓦も盛土の中から出土している。これは、瓦葺きの建物があったことを示すとともに豊臣家との結びつきを示す資料である。(説明板参照)




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(左)丑寅櫓跡。三ノ丸の東北隅にあった櫓。二階建てで、唐破風や廻縁高欄が付けられた天守と同形式のもので、城内8つの櫓の中では特異な外観をしていたという。

(右)二の丸石垣。この石垣の上のあたりが数寄屋櫓跡。現在は管理事務所が建っています。

三の丸にはこのほかたくさんの説明パネルが展示されていますが掲載は割愛。そのまま二の丸の下を北側に回り込むと銀杏並木の道になります。



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城の北側、谷屋敷跡方面に降りる道。このあたりも立派な石垣。付近には綿倉門跡もあります。



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同じ場所から逆側を見ると、二の丸への登り口。こちらが二の丸水の手門跡になります。



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水の手門跡を上から。再び二の丸に登ってしまいました。先ほどはここから詰門2階を渡って本丸へ向かいましたが、今度は西側へ向かいます。



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二の丸北西隅にある乾櫓跡。先端まで進んだところ下に降りられず後戻りする羽目に。上から見ると特段何もありませんが・・・



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(左)下段から見ると高石垣の櫓台となっています。二の丸乾櫓は城内8基の櫓の中で唯一の三階建てで、さながら小天守のようであったといわれています。

(右)案内マップによると二の丸乾櫓の下の段のこの場所にも乾櫓跡の表示がされています。



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西側から見た城内中枢部。左が二の丸、詰門を経て右手高石垣の上が本丸。本丸は櫓と塀に囲まれており要塞チック。

現在地の平場は江戸時代「獅子の段」あるいは「鹿の段」と呼ばれた場所。射場や馬場があったといい、「西南櫓」「西櫓」「乾櫓」の3つの櫓が建っており厳重な警護がなされていたようです。明治7(1874)年高知城公園の開園を記念し梅林となり、現在は「梅の段」と呼ばれています。



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御台所屋敷跡

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御台所屋敷跡 北面石垣部分

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御台所屋敷跡 下段部から

御台所屋敷跡は本丸西の獅子の段下に位置する丘陵部に造られた出丸状の曲輪である。東から西に下る地形で、中ほどの斜面部で上段と下段に分かれている。上段部では中世(鎌倉~戦国時代)の土師質土器、瓦質土器、銅銭などや近世(江戸時代)の焼塩壷、多量の瓦類が出土した。大高坂山は山内氏の築城以前にも、南北朝時代(1336~1392)には大高坂松王丸らの居城として利用され、天正16年(1588)には長宗我部元親が居城をここに移した経緯があり、出土遺物はそれぞれの時代に該当するものと思われる。
古絵図によると、御台所屋敷跡全体を削ぎ葺きの板塀が取り囲み、搦手門につながる忍道が見られる。発掘調査により、忍道、塀や門の跡と思われる根石が発見され、下段の整地層では南側と石垣下から石組みの排水溝が出土した。斜面部からは江戸時代後期のものと思われる石垣が発見された。石垣の北側は根石、南側は数段の石垣が残っている。北と南では石の種類、工法に違いが見られ、それぞれの違いを考慮して石垣を復元している。(説明板参照)


この場所は明治以降「桃の段」とも呼ばれ、昭和25年から平成5年までは高知市立動物園が置かれていました。動物園移転後の発掘調査で中近世の遺構群が確認されるとともに、多くの出土品が発掘されています。



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現在地。ここから南に進むと桜山口。桜山は御屋敷の庭園で、この庭園の中には「涼風亭」「和楽亭」「花園亭」などの東屋があり、桜山の東には蹴鞠場もつくられていたといいます。



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上のマップの場所から少し北側に入ると城内神社跡に出ます。城内八幡宮は山内氏の高知城築城以前から大高坂山に鎮座していたといい、諏訪大明神・厳島明神とともに「城内三社」と称された。藩主一族が詣でるほか、高知城下の町民の氏神であったため、毎年9月1日から10日までの祭礼の際に限って庶民の参拝が許されていました。このほか、城内には春日大明神・熊野権現・祇園牛頭天王宮などの様々な神が祀られていました。



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さらに北に進むと乾櫓跡下の石垣。このあたりは人通りもほとんどなく一般の見学者は少ないようですが、見事な石垣なので時間があればぜひ足を運んでほしいところです。



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搦手門跡

城の裏門。西の丸や御台所屋敷に続き、城内の主門の1つであった。「西ノ口門」「西大門」とも。ここから城の西側に出て探索終了です。


<まとめ>城内にある重要文化財指定建造物15棟と主な紹介ページ
その①)追手門・追手門西南矢狭間塀・追手門東北矢狭間塀
その②)詰門
その③)懐徳館・納戸蔵
その④)天守
その⑤)黒鉄門・西多聞・東多聞・廊下門・天守東南矢狭間塀・天守西北矢狭間塀・黒鉄門西北矢狭間塀・黒鉄門東南矢狭間塀


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所在:高知県高知市丸ノ内1丁目
評価:★★★★★

松山城丸亀城と並ぶ四国屈指の名城。縄張り・普請(石垣や堀)・作事(天守や御殿・櫓)の全てが楽しめます。本丸内の現存建築物群は特に見ごたえあり。展示資料の多さや天守からの眺めもGOOD。銅像や花めぐりなど、公園としても楽しめそうです。「南海道随一の名城」の名にふさわしい城郭でした。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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