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高知城② ~土佐24万石の中心~

ここで高知城の沿革について。

大高坂山には、高知城の前身として大高坂山城(または大高坂城)があったとされる。付近の豪族・大高坂氏によって築かれたとされるが、定かではない。記録上では、大高坂松王丸が居城したことが知られている。松王丸は南朝方に付き、延元3年(1338年)には後醍醐天皇の第7子・満良親王を迎えている。しかし興国2年(1341年)、松王丸は北朝方の細川禅定、佐伯経定と戦って敗北、大高坂山城は落城した。その後文献に名がなく、廃城となったと考えられる。

天正15年(1587年)、長宗我部元親は、豊臣秀吉の九州征伐従軍から帰国後、大高坂山に再び城を築いた。ただし、天正13年(1585年)には元親が既に大高坂を本拠にしていたとする説もある。
天正19年(1591年)、水はけが悪かったため元親は3年で大高坂山城を捨て、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築いた。ただし、元親が大高坂山城を捨てたとする見解は山内氏支配下の江戸時代の二次史料で初めて登場したものであること、浦戸城の規模の小ささや浦戸移転後も大高坂周辺の整備が進められていた形跡があることから、浦戸城は朝鮮出兵に対応した一時的な拠点に過ぎず、大高坂山城の整備も引き続き行われていたとする説もある。

慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおいて元親の子・盛親は西軍に与して改易された。代わって、山内一豊が掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入った。
慶長6年8月、浦戸は城下町を開くには狭いため、一豊は長宗我部氏が一旦築城を断念した大高坂山の地に新城を築くこととしたが、同地は浦戸湾に面した地の利があるが、当時、同地周辺は湿原が広がるデルタ地帯で、長宗我部氏が断念したほどの水害の難所であり、山内家の技術では困難が予想された。一豊は関ヶ原の戦いでの罪人とされ、京都で蟄居処分となっていた百々綱家(旧織田秀信家老)の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められた。一豊と同郷近江の出身の百々は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたと伝わる。6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ねた。翌月より百々は大工頭、鍛冶頭、築壁造頭らを率いて、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江ノ口川など川の治水工事に着手した。
木材は同国内から、石垣は浦戸城のものも流用し、瓦は上方に発注した、とされている。その他専門の職人は大坂から雇用し、人足には山内家家臣団も利用された。子供も工夫として参加させ、賃金も支払われた。一日の参加人数は1200人を越えたと伝わる。冬の寒い時期は粥などの炊き出しを行い、月の明るい夜は夜通しの工事も行われた。
慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸の石垣が完成。旧暦8月には本丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際に、真如寺の僧・在川(ざいせん)により、河中山城(こうちやまじょう)と改名された。

慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで、2代目藩主忠義は河中の表記を変更を命じ、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)によって高智山城と改名した。この時より、後に省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
慶長16年(1611年)、難関であった三ノ丸が竣工し、高知城の縄張りが全て完成した。
(wiki参照)


それでは前回の続き、杉ノ段から。

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杉ノ段から見た天守

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少し拡大

杉ノ段は「井戸ノ段」とも呼ばれ、藩主のお国入りや出駕の際には一族がここまで送迎に出向いていました。将軍家から下賜された「御鷹之鶴」を迎える際には藩主自らこの井戸ノ段に出向いたといいます。また「長崎蔵」や「塗師部屋」などの建物もありました。現在は山内一豊の妻の銅像のほかにも記念碑や句碑などがいくつも建っています。掲載は省略。



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三ノ丸石垣

三ノ丸は、慶長6年の築城開始から10年を要して最後に完成した。面積は4,641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m。石垣に使用されている石柱は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆が安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。また、三の丸には1,815㎡の壮大な御殿が建築されていた。三ノ丸の入口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで築かれている。今回の解体修理に伴う発掘調査でチャートの根石(基礎石)が確認され、改めてその事実が確認された。三ノ丸の石垣は、慶安3年(1650)、宝永4年(1707)に地震や豪雨により崩壊し、修理した記録が見られる。今回の修理は、平成11年に実施した調査により割れたり孕んだ石が多く、崩落の危険性が確認されたことから、平成12年度から事前の発掘調査や測量などを実施した後、鉄門付近から東面の花壇前まで実施した。工事は、改修前の石垣の状態を把握した後、割れた石以外は元の石を使用し、元の場所に戻すことなど現状復旧を基本として実施した。改修工事は、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって平成16年度から平成21年度にかけて実施、総工費4億円を要した。(説明板参照)




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改修工事の様子(説明板より)



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写真右下に見切れているのが井戸ノ段の別名の由来となった井戸。深さは18mで、城内にある井戸の中でも最も水質がよかったため、毎日3回この井戸から水を汲んで藩主の住む二の丸御殿に運んだといいます。

ここで6~7名の団体客と説明しているガイドに行きあう。30代くらいの男性客がガイドに向かって「大地震が起きたらこの城はどうなるのか」的な質問をしていました。ほんの3週間前(探訪時現在)にあった熊本地震のことを念頭に入れての発言であることは明らかですが、ガイドのじいちゃんは「大丈夫、城は絶対に崩れない」と断言していました。えっ、そうなの。何か根拠でもあるのかと思い様子を伺いましたが、男性もそれ以上突っ込まなかったので特に根拠の説明は無し。う~ん、あの絶対の自信はどこから来るのだろう。地震大国の日本において、絶対に大丈夫と断言できることはないと思うのだが。そうでなくともこの辺りは南海トラフの危険だってあるのに。さっきの三の丸の石垣のところにも「地震や豪雨で何度も崩壊し」ってあったし、それが当然だと思うんだけどな。



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鉄門跡

この場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていた。ここを入ると二の丸から本丸に通じる重要な位置にあるため石垣は整然と築かれていて、門の扉には多くの鉄板が全体に打ち付けられていたので、鉄門と称された。小さな桝形を形作っている門の内側には番所があって、弓・鉄砲を持った番人と足軽が詰めていた。右と正面の石垣の上には矢狭間塀がめぐらされていて、門内に侵入した敵を3方面から攻撃できるようになっていた。左に曲がって石段を上がると、矢狭間塀のために二の丸への道は見えず、むしろ詰門への石段が連続して見えるので、自然と詰門の方向に導かれるように巧妙に設計されていた。石段は18段あって「一八雁木」と呼ばれていたが、現在は16段になっている。石段の中間から鉄門の二階に上がれるように設計されており、 その辺りの石には、切り出した時の楔の跡がそのまま残っているものが見られる。(説明板参照)




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鉄門跡から見たから詰門。詰門は城内に15基ある国重文の一つ。鉄門跡を過ぎた場所は右手前の三の丸、右手の二の丸、正面の詰門、左手の犬走りと道が複雑に分岐し、攻め手も混乱するところです。正面の詰門へ攻め寄せるのが一番自然ですが、そこは防御側の待ち構えるところで、門の手前は三方向からの射撃を受けるキルゾーンとなっています。

詰門は本丸と二の丸の間に設けられた空堀を跨ぐ形で建てられており、橋廊下という旧名がある。階上が登城した武士の詰所となっていたため、現在は詰門と称している。東の出入口は右寄りに設け、西の出入口は中央に付けられていて、筋違いになっている。これは攻め上がってきた敵が容易に通り抜けられないようにという防衛上の配慮によるものである。また、東からこの門を突破しても、容易に本丸には行けないようになっている。一階部分の南寄りは籠城のための塩を貯蔵するようになっていた。中二階部分は窓も無く物置であったと考えられる。二階は二の丸から本丸への通路でもあり、内部の3室を畳敷きとし、家老・中老・平侍と身分に応じて詰める場所が定められていた。板の間の東南隅には非常の場合の階下への抜道が設けられている。また、東面に3ヶ所、西面に5ヶ所の隠し銃眼も設けられている。(説明板参照)




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キルゾーンを回避し、右手の二の丸への道を登ります。迂回となるがこれが本丸へ向かう正解ルート。この場所から階段を登らず右手前奥に進むと三の丸ですが、時間の関係でまずは天守に向かうことを優先します。目の前にはお遍路さんスタイルの男性。この方、少し前から目に入っていましたが、日に焼けていてかなりの距離を歩いてきたのだろうと一目でわかります。お遍路って定年後の時間のある人がやるものだと思っていましたが、若めの人もいるんですね。



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二の丸手前で振り返って。ここからの天守の姿もいいですね。



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高知城の別名は「鷹城」。別名で呼ばれる機会が少ないのであまり広まっていない感じですが、その名の由来は屋根瓦の灰色と白漆喰壁の白色が鷹の羽の色合いに似ているからだとか。



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二の丸

本丸の北、三の丸の西上方に位置するこの二の丸は、三の丸より約8m高く、標高約40m、外輪の長さ270m、総面積4,128㎡の台地である。ここに建てられていた二の丸御殿は、政務をとる表御殿と藩主が日常の生活をする奥御殿が連続して建てられており、一部2階建てになっていた。総面積は1,233㎡もあった。明治6年(1873)公園化にともなって全ての建物が撤去されたが、現在残る築山は、奥御殿の上段の間に藩主が着座したとき、正面に見える位置にあたっている。二の丸はこのほか目付役所やスキヤ櫓、家具櫓、長局などの建物があった。特に西北隅にあった二の丸乾櫓は、城内にあった8棟の櫓の内では唯一3階建てで、2階と3階の屋根には飾りの千鳥破風を配し、さながら小天守のようであった。北側の一段下がった所に水の手門があり、綿蔵・綿蔵門を経て城八幡方面や北門の方に通じていた。(説明板参照)




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二の丸御殿平面図



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先ほど下から眺めた詰門の2階部分を渡って本丸へ。詰門二の丸側には「高知城懐徳館入口」の表示が掲げられています。本丸と二の丸をつないでいることから「橋廊下」とも呼ばれ、下の説明板でもあったとおり内部には家老・中老などの詰所や隠し銃眼などがあります。



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廊下門

入母屋造りの櫓門で、城内に15基ある国重文の一つ。詰門からこの廊下門の下をくぐって本丸内に入ります。写真は本丸内から撮影したもの。



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本丸内に入ると、いよいよ目の前に天守が登場。



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天守・懐徳館へは入場料がかかります。大人420円。お金を支払い早速入場しようとすると、背後から団体客が襲来。タイミング悪いなあ。団体客は展示物とかろくに見ないでてっぺんまで登って景色見て降りて来るだけだから、先に行かせてあげることにしましょう。江戸時代の日時計やら天守外観やら本丸内やらを眺めてやり過ごし、少し落ち着いたのを見計らってからいよいよ入場です。


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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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