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高知城① ~偉人たちのお出迎え~

高知共済会館を出るとすぐに高知県庁前面にめぐらされた水堀に出会います。


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現在地はココ



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県庁前水堀

県庁の建っている敷地はかつての下屋敷跡。隠居や世継ぎなどの藩主一族が住んでいたところであり、表御殿のほか中奥御殿など749坪の広大な建物であったとか。堀を渡り下屋敷へ通じる石橋には御屋敷御門(南門)という門もあったといいます。



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高知市道路元標発見           高知城追手門へは堀沿いを迂回



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水堀の南東隅から丸ノ内緑地と呼ばれる広場へショートカットすることもできます。この広場は藩政初期の図面には「侍屋敷」と記されていますが、中期には「御馬場」と記録されています。石組みの水路跡や出土遺物の説明もありますが割愛。あとガス燈も展示されていました。説明板を読んでも特別高知がガス燈に縁があるというわけでもなさそうでしたが・・・



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御馬場跡から堀の外側に見える建物は高知城歴史博物館。今回は見学はしません。



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広場の隅に立つ像。誰ですか?



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追手枡形の城内側から

そのまま進むとトイレや案内所のある平場に出ます。案内所で城内マップを入手してから、いったん追手門の外へ。



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追手門から外に出て、すぐに左手の県立図書館・文学館方面へ。写真には写っていませんが、周辺はベンチで将棋を指すおっちゃんらがそこそこいました。

奥に立派な銅像が見えます。



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山内一豊像

銅像の本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ、高さ4.32m、重さ3.6トン、台座5.08m、総高9.4mで、騎馬像としては、皇居前の楠木正成像を上回る、国内最大クラスとされます。

山内一豊は、天文14(1545)年、尾張国葉栗郡黒田(岩倉ともいわれる)に生まれた。

父の盛豊は、尾張岩倉城主織田信安の家老で、黒田城を任されていたが、弘治3(1557)年、織田信長の手のものに襲撃されて討ち死にしたとも、永禄2(1559)年、織田信長に攻められ岩倉城で討ち死にしたとも言われている。以後、一豊は母とともに流浪の生活を送ることとなった。

一豊は流浪の末にいく人かの主君に仕えたのち、織田信長の家臣であった秀吉に仕え、信長の越前朝倉攻めでは秀吉の配下として武功をあげ400石の領地を与えられた。

また、本能寺の変で信長が死去し秀吉の天下となると、そのもとで数々の功績を重ね、天正13(1585)年に近江長浜2万石、天正18(1590)年に遠州掛川5万石を与えられ、検地や築城、城下町経営に手腕を発揮した。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方し土佐一国を与えられた。

当時の土佐は、長宗我部氏の除封による混乱の状態にあったため、土佐受取りのため井伊直政の家臣2人が一豊の弟、康豊とともに派遣された。

長宗我部盛親の遺臣が、浦戸城の明け渡しに反対する一揆を起こしたが、派遣軍はこれを武力によって鎮圧する一方で、康豊は旧来の制度を踏襲し領国統治を行う旨を示すなどの懐柔策を展開した。

一豊は慶長5(1600)年の暮れ、大坂を出発し、翌6年1月2日に甲浦に上陸、8日に浦戸城に入城した。
高知城HPより)




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それでは改めて、高知城の表門である追手門から入城します。石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の正面にふさわしい堂々たる構え。門前は門と矢狭間塀で囲まれた枡形状になっており、三方向から攻撃を加えることができるようになっています。



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追手門と天守遠景

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国宝の碑

昭和9年「国宝保存法」により指定された、いわゆる旧国宝。現在は15の建造物が国の重要文化財に指定されています。このあたりだと追手門追手門西南矢狭間塀追手門東北矢狭間塀の3件がそれぞれ国重文。門前の石垣には刻印も確認でき、追手門には石落としの仕掛けも備わっています。


城内へ入ると、目の前に有名なあの人の像が。


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板垣退助像

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天守をバックに                 有名な言葉

板垣退助は自由民権運動の父とされ、特に「板垣死すとも自由は死せず」の名言は明治時代の一大流行語となった。この銅像は昭和31年(1956)5月11日に再建除幕されたもので、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂の書。像の高さは2.20m、台座4.205m、全高6.405m。



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この場所から見上げる天守は「そそり立つ」といった感じ。



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天守へ向かう登城路。中央右手に見える巨木はセンダンの木。



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少し登ると「石樋」についての説明板があります。

高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に排水には注意が払われている。石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいものである。石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16カ所確認されているが、下になるほど排水量が多くなるため、この石樋が一番大きく造られている。




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ということで城内でも一番大きい石樋。プールの飛び込み板みたいだね。

階段を登って1段上の平場に到着。この平場は杉ノ段と呼ばれるところ。ここにも一つ銅像があります。



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山内一豊の妻像

山内一豊の妻は、弘治3年(1557)生まれ。通称千代といわれているが、これを裏づけるたしかな資料はない。出身についても通説では近江国(滋賀県)浅井氏の家臣若宮友興の娘とされているが、近年では美濃国(岐阜県)八幡城主遠藤氏の娘ともいわれている。幼い頃父を失い、17、8歳の頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されている。中でも結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって出世の糸口になった逸話は広く知られている。また、関ヶ原の戦いの前に、笠の緒に縒りこめた手紙で関東にいる一豊に大坂方の情報を知らせ、その進路を決定づけさせたことが一豊の土佐一国領主への道を開くことになった。手芸や文筆にもすぐれ、賢夫人として知られている。元和3年(1617)12月4日、京都で没、61歳。法号見性院。
この銅像は昭和40年(1965)2月26日に除幕された。(説明板参照)




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この千代(通称)さん、ずいぶん腹回りがふっくらしとるな


ここまで有名な銅像が次々とお出迎えしてくれているようで気分も上がります。そうすると、最初に登場したあの謎の人物像のことがどうにも気になってきます。現地では確認することはできませんでしたが、後日検索して、ようやく判明しました。「野村茂久馬」という人物の銅像だそうです。

参照→高知城の追手門左の公園にひっそりとたたずむ銅像は誰のですか?

やはり同じ疑問を持つ人がいたか(笑)


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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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