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堀川城 ~やりすぎ家康 滅ぼされた気賀一揆~

気賀関所大河ドラマ館のある場所から、細江警察署前の変則交差点を南西へ400mほど進んだところが「伝堀川城跡」です。駐車場はありませんが路肩のスペースに停車可能。



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海抜1.3m                         首塚

周囲は田んぼの広がる低地で一見すると要害性は皆無。往時は満潮時には船を使わないと城へ行けなかったといい、浜名湖や都田川などを天然の堀とし、湿地帯を防御に利用した水辺の砦であったと思われます。



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城址碑!

永禄11年、井伊谷三人衆の調略に成功した徳川家康が遠江今川領への侵攻を開始します。そしてここ堀川城で、当時25歳、若き日の家康がやらかします。

「男女ともになで斬りにしたりける」(三河物語)

堀川城

永禄11年(1568)、徳川家康は、遠江侵攻にあたって、井伊家の被官であった井伊谷三人衆、近藤康用・菅沼忠久・鈴木重時らを調略し、彼らの本領を安堵しました。これにより、家康は井伊谷から刑部城引間城へと軍を進め、遠江に前線を得ました。しかし、今川配下の土豪と農民たちは堀川城に立て篭って抵抗しました。翌、永禄12年(1569)の家康の遠江侵攻にも、もっとも強く抵抗した城です。当時の浜名湖の湖岸にあって、水辺の守りを固めた砦だったと思われます。形や場所ははっきりしません。
ここで家康は篭城兵を「撫で斬り」とし、敗残兵を探し出して気賀の獄門畷にさらし首にしています。城兵は全滅となりましたが、一部の兵が対岸の堀江城に渡り、落城の情報を伝え、堀江城は家康との和睦を選択します。同じ今川家に仕えた遠江の諸将には、それぞれにとって大きな選択の年となりました。なお、井伊谷三人衆は家康の命で後に井伊直政につきますが、やがてそれぞれ独立していきました。
(現地説明板参照)




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堀川城の戦い

永禄3年(1560)、今川義元が織田信長に敗れ、今川氏真が家督を継いだころから、今川家の支配していた遠江は動揺します。今川家の弱体化を見越した甲斐の武田信玄、尾張の織田信長、さらには今川氏に反旗をひるがえして信長と同盟をした三河の徳川家康らが、駿河・遠江への進出をねらって動き出しました。
信長・家康同盟の本拠、尾張・三河に近く、また北遠を通じて信玄の領地であった信濃にも近い浜名湖北岸の地域は、湖北をめぐる街道(後の姫街道)や水上交通の要衝として、双方から重要視されました。この地の武将や住民たちは、これまで通り今川家につくか、信玄あるいは信長・家康につくか選択を迫られていきました。
永禄11年(1568)12月、井伊谷周辺を味方に付けた家康が遠江へ侵攻します。気賀周辺の住民は氏真に付いて家康に抵抗しました。駿府から敗走した氏真がたてこもった掛川城攻めが長引き、武田軍の遠江侵入の動きが伝わる中、気賀周辺の反徳川の動きも活発でした。こうした状況の中、家康は堀川城の兵の目を避けて、いったん三河に戻っています。体制を立て直して再度遠江へ侵攻した家康は、堀川城を徹底的に攻め、たてこもった城兵や住民を全滅させ、落城の後も敗残兵を探し出して処罰しています。さらに捕虜の首を獄門畷にさらしたと伝わります。
家康の生涯における戦の中でも、もっとも残酷な戦場となりました。




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首塚

堀川城には周辺土豪や武装した農民のほか、逃げ込んだ老若男女併せた農民たちなど、籠城者の数は2000人ほどに達していたといいます。武装蜂起した農民が含まれていたことから「気賀一揆」とも呼ばれます。これらいわば烏合の衆に対し家康は猛攻撃を加え、城は1日の戦闘で1000人が討たれ落城します。さらに後日、抗戦の関係者として700人が捕縛され斬首されるという徹底した処断が下されています。1700という死者数は、村民の半数以上が犠牲者であったとされます。このなで斬り事件はあまり知られてはいませんが、刃向かったとはいえ非戦闘民も含む農民に対してここまで苛烈な仕打ちを行った例は戦国時代でも少なく、家康最大の汚点といってもいい行為です。よっぽどムシの居所が悪かったのだろうか・・・


堀川城
『井伊直虎GUIDE BOOK』No.47。達成状況【14/57】


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所在:静岡県浜松市北区細江町気賀
評価:

家康が実は苛烈な性格面を有しているというのは知る人ぞ知るといったところですが、それにしてもこのなで斬りはやらかしすぎでびっくりです。城については特に遺構はありませんが、見学時間もかからないので歴史を感じたい人にはぜひ立ち寄っておいてほしいところです。なお、井伊家と関わりのある豪商・瀬戸方久が城の工事費を負担したとも、城主を務めたともいわれています。
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当時の農民は農繁期以外は戦に加わっています。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日生野菜摂取しないと死ぬ。
© 2010 城館探訪記

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