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須崎城 ~長宗我部元親三男・津野親忠の居城~

須崎の町並みの北に聳える標高140mほどの山、その名も城山。
この山上に、この地を治めていた津野氏によって築かれた須崎城がありました。

築廃城時期や城主などの詳細は定かではありませんが、津野忠親・山内右衛門大夫の土居が山麓にあったといいます。そういえば須崎八幡宮の説明板にも津野忠親の名前が記載されていましたね。

姫野々城を本拠とした津野氏は土佐七雄の一つとして高岡郡一帯を支配していましたが、長宗我部家が勢力を西へ伸ばすとその圧力によって家中が分裂。その後長宗我部元親の三男親忠を養嗣子として迎え、長宗我部家に完全に吸収される形になりました。



P5080075.jpg
城山遠景

登りますか?

  はい
→ いいえ


須崎にはもともと須崎砲台のみの訪問予定であったので、これ以上の寄り道をすることはできませんが、一応調べた情報を最後にまとめておきます。いつか登城する時用の備忘録です。

その前に津野親忠について。

元亀3年(1572年)、土佐国の戦国大名・長宗我部元親の三男として誕生。

父・元親が土佐国の豪族・津野氏を降し、津野勝興の養子として親忠を送り込んだことにより、津野氏の当主となった。ところが、天正13年(1585年)の四国の役で、父が豊臣秀吉に敗れると、秀吉のもとへ人質として送られる。

天正14年(1586年)、長兄の長宗我部信親が戸次川の戦いで戦死すると、長宗我部氏の家督相続争いに巻き込まれる。家臣の久武親直の讒言に加え、人質時代に藤堂高虎と親しかったこともあって父・元親からは嫌われ、家督は弟の長宗我部盛親が継ぐこととなった。慶長4年(1599年)3月には元親によって幽閉される。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、当主・盛親が西軍に与して敗れた後、井伊直政を通じて徳川家康に謝罪し、本領安堵をしてもらうように取り付けようとしたが、久武親直が「親忠が藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」と讒言したために、盛親によって9月29日に香美郡岩村・霊厳寺にて殺害された。享年29。親忠を殺したことにより、盛親は「兄殺し」として家康に咎められたことが長宗我部氏改易の一因となった。

この盛親が親直の讒訴によって「兄殺し」をした話は、『土佐国編年紀事略』に記述されているが、一方で『土佐物語』では、久武親直の讒訴を盛親は聞き入れなかったが、親忠の抹殺を願う親直は「盛親の命令があった」と、大義名分を捏造して親忠を殺害したと伝える。なお、長宗我部氏に代わって土佐国の大名となった山内一豊は、土佐入国後の領内の巡視を行った際に、「津野親忠自殺の始末を知る者はないか」と問うたため、須崎代官を勤めていた柏原新之丞が「中平清兵衛が津野氏一族なのでこの者を召されれば事実が明らかになるでしょう」と答えた。そこで、清兵衛が召しだされて津野氏断絶の一部始終が一豊に伝えられた。
(wiki参照)




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所在:高知県須崎市須崎
評価:

登城口は城山南東の城山公園から。しかし地図を見ると北西側に中腹まで車道が伸びているので、こちら側からのルートも検討。遠望だけなので何とも言えないのですが、登りがいのある山城に見えます。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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