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中村御所 ~名門土佐一条氏の居館~

土佐一条氏が幡多荘を治める拠点として築いた居館が中村御所です。

土佐一条氏は、1468年(応仁2年)に一条兼良の子で関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに起源を有する。鎌倉時代末期から室町時代にかけて敷地氏・布氏・入野氏などが幡多荘の押領をもくろみ、更に戦乱による所務不振に悩まされることになり、その安定化を図る目的もあったと考えられる。教房は幡多郡を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として「中村館」を置き、以後「中村御所」と称された。また、教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に下向するなど、中村繁栄の基礎を築いた。(wiki参照)



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中村城から城下を眺めると、小高い丘陵の上にある一條神社を見つけることができます。
中村御所はこの一條神社付近に築かれていました。



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一條神社参道

ぐるりと周囲を一周したものの駐車する場所がなく困りましたが、鳥居の内部に停められそうなスペースがあったのでここに駐車させてもらいます。「参拝者・神社関係者以外の駐車は遠慮願います」との表示がありましたが、神社参拝も兼ねての登城なのでOKと解釈。ただし写真ではスペースに余裕があるように感じるかもしれませんが、実際は見た目以上にスペースに余裕はないので、大型の車(バンタイプなど)はよほど運転スキルに自信がある人以外は入らないほうがよいでしょう。



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城址碑(この場合御所跡碑か)発見!

御所は一条教房が中村下向のとき居館として構築、一条氏敗去のあと荒廃したが、慶長12年(1607)遺臣により一条氏数代の霊をまつる一祠が建てられた。神域には藤見の御殿跡や化粧の井戸など一条氏ゆかりの旧跡が残っている。(現地石碑参照)




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Oops、この期に及んでこの石段はきついぜ。



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石段手前にある「咲かずの藤」

土佐一条氏は邸内に藤見の館「藤遊亭」を建て、家紋でもある藤をこよなく愛したと伝えられています。土佐一条氏第4代当主一条兼定は、長宗我部氏に追われ、館を離れるにあたり

植え置きし 庭の藤が枝 心あらば 来ん春ばかり 咲くな匂うな

と歌を残して去り、この藤はその後約三百年間花をつけませんでした。
しかし、文久元年(1861)、この藤が見事に咲きほころび、このことが翌年の一條神社建立の発端となりました。(説明板参照)




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石段中ほどにある「御化粧の井戸」

石碑の建っているところから中に入ると社務所の敷地になっており、奥まで入っていいのか少し躊躇しましたが、すぐに写真右の説明表示を発見。へー、これが御化粧の井戸かあ。

・・・と安心して写真を撮ってこの場の見学は終了したのですが、実はもう少し奥にきちんとした井戸があり、それが御化粧の井戸であるということが後日判明しました。そりゃー確かにこれは井戸じゃないよなあとこの時も思ったものでしたが。説明表示が建っている場所が悪いよ。

一条家が使ったと伝えられる7つの井戸の内、現存する唯一の井戸で、この奥にあります。女官、侍従たちがお化粧のために使用したのでこう呼ばれるようになったと伝えられています。井戸の枠は一枚岩をくりぬいたもので当時の一条家の権勢を物語っています。尚、水深は約5m、現在の井戸枠は境内拡張の際築き上げられていて、昔より高くなっています。井戸水は今日まで枯れたことがありません。(説明板参照)


井戸はこの奥にあるって書いてありましたね。
・・・だから現地ではじっくり説明を読むようなゆとりある攻城はしてないんだってば。



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残りの階段を強行突破して頂上到着。今日一体何段の階段を上り下りしたのだろうなどと思いながら(笑)

険しい山を登るのも疲れますが、登山するつもりはなかったのに朝から断続的に階段の上り下りを繰り返すというのも地味にこたえます。



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右手の建物を見ると、階段の一番上になにやら物体が。

あれは・・・



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やっぱりねこちゃんだ

リラックスしまくりでかわゆい。起こさないように気配絶ちモードに。



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この推定復元図を見ると、居館は現在社殿が建っているこの森山上ではなく、堀を巡らせた麓の部分にあったようです。森山を含む広大な敷地の居館は、小京都の「御所」と呼ぶにふさわしいものです。

天正17年(1589)の『地検帳』によると、この丘陵が森山で維摩堂床がある。小山の東側に、御堀・北堀・寺院跡や小田つきの広い土地に建物がある。西側には、御土居が散田と登録され「居」の記載で家屋のあったことが知れる。御土居・御堀の敬称は長宗我部元親につけたものではあるが、東・西同じ地割の絵図範囲が土佐一条氏の『中村御所』跡と推定できる。
慶仁2年(1468)前の関白従一位一条教房が幡多庄に下向から1世紀―。往時の華やかな公家文化と壮大な権勢が偲ばれる。(説明板参照)




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一條神社

文久2年(1862)、小森山山頂にあった一条家御廟所跡(慶長12年に一条家遺臣により建てられた祠)に、土佐一条氏の遺徳を偲ぶ有志によって建立された神社。



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天神社

土佐一条氏が京都五条天神を勧請したものと伝えられ、藩政時代山内氏からも崇敬厚く、昭和28年現在地に移転したもの。

背後の山は中村城。丸で囲った部分に何か見えますね。



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拡大。中村城模擬天守(郷土資料館)の雄姿。
先ほどあちらにいた時は近すぎて撮影失敗しましたが、この場所でいい写真を撮ることができました。


*ここでの推定階段上り下り数・・110段 トータル・・・2010段


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所在:高知県四万十市中村本町1
評価:★★

明確な遺構は確認できませんが、地形の名残や一条氏ゆかりの旧跡が残されており、雰囲気は十分感じることができます。表示物関係も充実しており、じっくりと散策を楽しむこともできそうです。駐車スペースが極小な点が車利用者にとっては厳しいところ。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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