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栗本城 ~一条兼定、再起ならず~

足摺テルメでお土産購入後、ここから一気に本日の宿営地・四万十市の中心部へ向かいます。土佐清水の市街地までは行きとは別の足摺スカイラインを使う手もありましたが、効率性をとって行きと同じr27パイパスルートを選択。再び鹿嶋砲台の前を通過し、「サニーマート」前で今度は右折しR321を北上。あとはひたすら道なりに走れば四万十市街地へ到着です。

この時期は日が長くまだ十分に探索可能な時間なので、近辺にある城館を探索します。まずは四万十川の西岸、高森山から続く高台の突端に位置する栗本城へ。春日神社北側にある小山の頂部に築かれた城です。



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場所はココ

一度山への登り口を一つ間違えて、民家の敷地内に突入してしまった。「すみません間違えましたー」と言いながら切り返して退出。あー恥ずかしかった。

小山の頂部まで車道は続いており、終点は少し広いスペースになっているのでそこに駐車。
頂部は配水池施設になっています。



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配水池施設前で説明板発見

天正三年(1575)幡多を遂われて国外にいた一条兼定は、土佐一条家を回復するため、南予・幡多の将兵を率いて、中村に進攻し、ここ栗本に要害の城をかまえて、長宗我部の大軍と一戦を交えた(世にいう、渡川合戦である)が、空しく敗れて、西方伊予方面に逃れたと伝えられている。尚、一条兼定の墓は宇和島市戸島、竜集寺境内にある。

栗本城は、具同地区を中心とした市西部の人口増加により、将来の水供給に対する施設設置の計画がおこったため、工事に先だって昭和五十八年に発掘調査が実施された。調査の結果、詰の北部では土壙、中央部と南部では溝状遺構・追手と思われる段状遺構が検出された。柱穴・ピットは詰のほぼ全面で検出されており、南北両端部に櫓が建てられていたことが想定される。西部郭にも多くの柱穴がみられ、ここにも建物が存在していたと思われる。更に中央部では搦手と考えられる段状遺構が検出された。土師質土器・古備前・中国青磁・古銭・鉄釘など室町時代後期の出土品は幡多郷土資料館に展示してある。

栗本城跡に建設した具同配水池は、昭和五十九年二月竣工、容量二千立方米、内径十八米、高さ八米、PC工法によるものである。
(説明板参照)


*渡川合戦(四万十川の戦い)

四万十川の戦いは、天正3年(1575年)に勃発した長宗我部氏と土佐一条氏の戦い。この合戦によって長宗我部元親の土佐統一が決定的となった。渡川の戦いとも呼ばれる。

戦国時代、土佐西部の幡多地方(現四万十市一帯)には藤原北家五摂家の流れを汲む名門・一条氏が国司として下向し、その高貴な家筋によって周囲の豪族を従え、和をもって勢力を誇っていた。しかし天文・永禄年間に入り一条兼定の代になる頃には、毛利氏の干渉による河野通直との戦いや長宗我部氏の台頭により領域を脅かされ、国内における一条氏の影響力は失われつつあった。

兼定は土佐東部の安芸国虎と結んで長宗我部元親に対抗するが、その国虎も八流の戦いで滅ぼされると、四万十川以東の豪族は次々と長宗我部に降り、一条氏の影響地域は四万十川下流域以西に押し込められた。次第に遊興に耽り国政を省みなくなった兼定は、主君を諌めようとした重臣・土居宗珊を無実の罪で手討ちにするなど家臣の信望も失った結果、天正2年(1574年)2月に家臣団の反乱によって土佐を追放され、妻の実家である大友氏を頼って豊後へと逃れた。これら一連の経過には元親による流言、調略も成果を挙げている。

幡多地方はほとんど戦闘によらず長宗我部氏の統治するところとなったが、翌天正3年(1575年)、旧領回復を目指し九州から戻った一条兼定は伊予宇和島で挙兵し、旧臣を従えて本拠地の土佐中村に復帰する。すると一条家への義を感じる土豪が帰参し、その兵力は3500に達した。これによって一条氏と長宗我部氏との軍事的衝突は避けられぬ情勢となり、四万十川河口部の西岸、栗本城に入った兼定は四万十川に杭を打ち込ませ、地形を利用した迎撃の構えを取った。

一条方が四万十川以東の集落や中村城の城下町を襲って挑発すると、長宗我部元親はわずか3日後に7300の軍勢を率いて四万十川東岸に現れた。当時は常備軍の制度が一般化していなかったため、短期間で多勢を揃えて(おそらく、田植えの時期を過ぎていたことも影響したと見られる)進軍してきた様子を見た一条方は驚いたされる。半農半兵から一歩進んだ一領具足制度の有効性を物語る一幕である。

両軍は四万十川を挟んで東西に対陣する。まず長宗我部方の第一陣が正面から渡河を試み、数に劣る一条方は後退しつつ弓矢や鉄砲を浴びせて応戦した。ここですかさず、長宗我部方の第二陣に控えていた福留儀重率いる手勢が北へ向かい、障壁となる杭がない上流から迂回する動きを見せる。二方面からの挟撃を恐れた一条方は隊を分け、上流に向かった福留隊を追ったが、この隙を逃さず、長宗我部元親は残った全軍に一斉渡河を命じた。

少ない兵力をさらに分散させ、寄せ集めで指揮系統も乱れていた一条方に、正面から倍以上の兵力で迫る長宗我部軍を迎え撃つだけの力はなく、たちまち総崩れとなった。なおも追撃を受けた一条方は200余名の死者を出して敗走したのに対し、長宗我部方に被害は少なく、土佐の覇権がかかった四万十川の戦いは、数刻で決着した。夕方になる前には首実検を終えることができたと言われる。

この戦いで兼定は逃げ延び、瀬戸内での隠遁生活の末に10年後に43歳で死去した。一方、土佐を完全に掌握した長宗我部元親は各地を転戦して四国に覇を唱え、天正13年(1585年)頃には四国のほぼ全域に勢力を拡大する。しかし直後の豊臣秀吉の侵攻を受け、土佐一国の大名として豊臣家に降った。
(wiki参照)



あっ、施設の中にキジがいる。


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フェンス越しのキジ


遺構はなくとも説明板を写真に収められたし私的には十分満足。
このまま立ち去ってもいいのですが、奥に続く道があったのでせっかくなので少し歩いてみます。



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奥に進むと南方に開けた場所に出ました。こうしてみると小山ながら要害性は十分感じられます。
ちょうどこの足元付近には春日神社があるはず。

ちなみに説明板には天正3年以降のことしか書かれていませんでしたが、それ以前からこの地には城砦があったといいます。築城者・年代ともに不明で、津島勘助、鳥屋源兵衛といった人物が城主であったと伝わります。



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遺構らしきものはないかと奥へ進むも、特に何もなし。実際のところ城域をはるかに過ぎてしまったようです。慌てて小走りで帰還。



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車へ戻ると、先ほどの説明板の裏に絵図が記されていることに気付きました。いったん奥に行って戻ってこないと気付かなかったですね。やったね。
(*冷静に見ると説明板の表側にもしっかり「遺構配置図は裏面にあり」と記されていますが、私は現地では時間短縮のため説明板は写真に収めるだけで、中身はしっかり見ないことが多いのです。)



P5071099s.jpg
遺構図拡大。方位の記載がないのが少々不親切。現在の地図と照らし合わせたところ左側が北のようです。図面中央の溝状遺構のところがちょうど配水池施設のど真ん中にあたります。


さて、一条兼定については一般的に暗君であるといわれ、某ゲームでの能力値の低さは目を覆わんばかりのものがあります。あまりにも不憫なのでここでは別の視点からの紹介を挙げておきます。

・・・しかし兼定は流浪の身ながら宗麟の食客として日々を過ごす事を斬鬼の念に絶えず、勝ち目なしと悟りながらも大友氏の僅かな援軍を得て長宗我部との決戦に赴くことになる。この時の兼定が漂わせる悲壮感、死をその身に感じながらも毅然とした挙措は、巷で言われているような卑俗な愚君などではなく、まさに土佐一条氏の主に相応しい高尚たるものであった。大友宗麟をして「一条教房公が乗り移ったかのように見えた」と言わせている。

土佐に帰還した兼定を、一条旧家臣や土豪たちは歓声をもって出迎えたと言う。兼定の下には見る見る兵が集まり、その数少なくとも3500にまで昇った。いかに兼定が人徳の篤い名君であったかお分かり頂けるであろう。兼定は四万十川の地形を最大限に利用して長宗我部軍を迎撃する作戦を発案。見事長宗我部軍を誘い込むことには成功したが、相対する長宗我部軍は、元親が部下達に「負けたら全員茹で釜の刑にしてやる」と脅していたため死に物狂いの形相で突撃、一条軍は兼定自ら先陣で太刀をふるって奮戦したものの、全く統率が取れていないものの数で圧倒する長宗我部の蛮族共に叶わず遂には散り散りになり退却する。この戦は後世、長宗我部元親の華々しい活躍を誇張するためにさも長宗我部軍の大勝利であったかのように脚色されるが、実際はむしろ数で圧倒する長宗我部軍に兼定らが十二分に過ぎるほどの奮戦をした、一条氏の勇猛さを四国中に知らしめた戦いであったと言える。

しかし兼定は大志を捨てることなく、土佐の草庵に隠遁し、密に再起を図っていたとされる。土佐の一条旧家臣、領民は長曾我部家の弾圧に苦しみながらも、土佐の伏竜兼定がいつか自分達を解放してくれることを切に願っていた。

そんな兼定が、長宗我部家にとっては煩わしい存在だったのであろう。長宗我部家より刺客が放たれ、兼定は一命こそ取り留めたものの左腕を失った。一説には、長宗我部の刺客が放った鉄砲玉が胸部に命中したものの、首からかけていたロザリオが凶弾を防いで兼定の命を救い、兼定はイエス・キリストに深く感謝の拝礼を捧げたと言われる。彼ほどの聖人君主にして熱心なキリシタンを、母なるイエスも見捨てなかったのであろう。

土佐一条家最後の当主兼定は土佐の民に惜しまれながらも1585年死去する。刺客に襲撃された時の負傷が原因とも、病とも言われる。その悲報に土佐は愚か四国の民全てが慟哭し、兼定に刺客を放った長宗我部元親も黙祷したほどだった。兼定の死後間もなく、豊臣秀吉による四国征伐が行われ、兼定の仇敵長宗我部は秀吉に下ることになる。兼定の長宗我部打倒の悲願はこうして報われる事となった。兼定の慰霊碑には、今も世界中からキリスト教徒たちが訪れている。
(アンサイクロより)


*ここでの推定階段上り下り数・・0段(多少山道を歩くも階段は無し) トータル・・・1750段


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所在:高知県四万十市具同
評価:★☆

主郭部分のほとんどは配水池施設となっています。わずかに残された主郭部分も完全に藪に埋もれており、西部郭もなんだかよくわからない状態です。保存状態はよくありませんが、図面付きの説明板が設置されているのは◎です。
それはさておき、一条兼定の再評価の日はやってくるのだろうか・・・
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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