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金剛福寺

足摺岬の探索後に向かったのが、県道を挟んですぐ隣にある金剛福寺。



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蹉跎山補陀洛院 金剛福寺

四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。前の三十七番札所からの距離は80余kmで、四国霊場の札所間では最長距離であるといいます。山号の文字「蹉」も「跎」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示しています。

門前に立っている僧の前を通ると「チリーン」と杖が鳴りました。



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山門



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山門内では寺院の修理のための寄進を募っていました。1枚1,000円の寄進で石板に願い事やらメッセージやら描けるシステム。あらゆる支出を極限まで抑えて旅をするスタイルの私には当然寄進することはできませんが、たくさんの寄進が集まることを願っておきます。



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本堂前に安置されている奉納された大師亀の像。
亀呼場の亀の話については「足摺岬の七不思議」を参照。



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本堂

寺伝によれば、弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。

歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している。

鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。南仏を「南仏房」と記す史料もあり、南仏(房)は慶全の別名であったとみられる。

室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが江戸時代に入っても土佐藩2代藩主山内忠義が再興した。
(wiki参照)


続いて池の脇に「大師堂→」の案内看板があったので、そちらへ向かいます。



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「弘法」の額が掲げられている大師堂。弘法大師らしき像が安置されていました。



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弁財天、鐘楼、不動堂、多宝塔、逆修塔、愛染堂、権現堂、行者堂などなど。一通り散策。
鐘楼では軽く鐘を鳴らしておきました。


(ここでの推定階段上り下り数・・100段 トータル・・・1670段
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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