FC2ブログ

記事一覧

中浜万次郎生誕地

鹿嶋砲台を後にし、r27を足摺岬目指して走行。
すると途中、中浜地区に差し掛かったところで次の表示を見つけます。



P5070876s.jpg
ジョン万次郎生誕地→

中浜万次郎生家(復元)→


ここも当初の予定には含まれていませんでしたが、せっかくの機会なので立ち寄ってみることにします。



P5070878.jpg
急坂を下り海沿いまで降りると、「中浜万次郎記念碑」の表示が。
まずはここからいってみましょう(車は付近に駐車可能)。



P5070879.jpg
贈正五位中濱萬次郎翁記念碑 

〇万次郎は、文政10年(1827)に、中ノ浜谷前の猟師悦助の二男として生まれた。幼少の頃より土地の老役今津家の下働きに出て母を助け、14歳の時、宇佐浦(土佐市)の漁船に乗り組み、足摺岬沖での初漁中に遭難し、九死に一生を得て仲間と共に南海の孤島(現在の鳥島)に漂着した。

〇143日もの無人島におけるサバイバル生活の後、米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、船長ホイットフィールドとの出会いにより、以来10年間、ジョン・マンと呼ばれて、米国本土での初等・中等教育を受け、英語、数学、航海、造船等高度な学問を習得し、また、捕鯨船の一等航海士副船長として、七つの海を奔走し大活躍をした。

〇嘉永4年(1851)に、母国日本に帰りたい一念から、大冒険を敢行して、厳しい鎖国令下の琉球に上陸し、那覇、薩摩、長崎、土佐藩で、1年10ヶ月もの執拗な取り調べの後、やっとの思いで中ノ浜で待つ母、汐との束の間の再会がかなった。

〇定小者という土佐藩の下級武士から、風雲急を告げる江戸城下の直参旗本に抜擢された万次郎は、その時生まれ故郷の地名を名字として、中浜万次郎と名乗り、時あたかも大船建造禁止令の解除や、日米修好通商条約の批准と相まって、造船、航海、捕鯨等の技術指導に東奔西走し、また、日米修好通商条約調印のための使節団の一員として、通弁主務は勿論、咸臨丸の事実上の艦長として、その大役を見事に遂行したのである。

〇明治2年(1869)開成学校(現東京大学)の教授に任ぜられ、中博士の称号で最高学府の教壇に立つなど、維新前後の激動期に、日米交流の架け橋として、国際的、文化的に果たした功績は誠に偉大である。明治31年(1898)11月12日、東京京橋弓町において、長男東一郎(医博)に看取られながら、波瀾万丈の71年の生涯を終えた。

〇「冒険とは、夢を形に変える行動力である」平成3年(1991)の万次郎漂流150周年を機に、郷土の偉大なる先人、中浜万次郎の限りない人間愛と、不撓不屈の精神(ジョンマンスピリッツ)を顕彰し、その遺徳を長く後世に伝えたいものである。
(現地説明板参照)




P5070881.jpg
中浜万次郎は昭和3年(1928)11月特旨を以て正五位を贈られました。
石碑の書は公爵徳川家達によるもの。

この場所からは道路の堤防沿いに説明パネルがずらりと貼られている光景を目にすることができます。



P5070883.jpg P5070884.jpg 
P5070888.jpg P5070892.jpg
そのパネル群、題して「中浜万次郎物語」

とてもわかりやすく、どんどん読み進めることができます。すべてのパネルを写真に収めたのでここで全部公開したいところですが、出し惜しみしましょう(笑)



P5070895s.jpg
ジョン万次郎を大河ドラマにしよう!!

あちこちでこういうことやってますね(緒方三郎惟栄とか)。個人的にはジョン万次郎も面白いと思いますが、英語での生活描写がネックでしょうか。



P5070896s.jpg 
P5070897.jpg P5070899.jpg
万次郎生家への表示に従い奥へ。
「車は入れません」の表示のとおり、道はすぐに極細の生活道路に。



P5070900.jpg
途中にある「中浜万次郎の母の出里 中谷家」の表示



P5070911.jpg
「中浜万次郎生家(復元)」到着

見学時間内(午前8時~午後5時)なら無料で見学できます。



P5070904.jpg
内部の様子

「ジョン万次郎大河ドラマ化実現署名者名簿」というものがあったので、私も署名しておきました。私と同じページには川崎市、横浜市、岡山県、そしてなんと外国の住所の方まで。皆さん遠くから来ているんですねえ。



P5070905.jpg P5070908.jpg
万次郎が使用したという井戸も残されています。



P5070909.jpg
復元生家から20mほど離れたところが実際の生家跡。
石碑が立っています。



P5070914.jpg
駐車スペースに戻りました。ここにはもう一つ、「中浜万次郎帰郷150周年記念碑」が設置されています。
この碑の隣にある説明板の文章が印象に残ったので、長いですが頑張って書き写します。

ウィリアム・ホイットフィールド船長殿

尊敬するお方よ、こうして一筆したためる機会をを得ようとは、この上のない幸せでございます。

私の方は元気で暮らしております。あなた様も同じく元気であることと存知上げます。あなた様には、お互い元気で命ある内に、是非もう一度お会いしたいと願っております。この願いが叶ったら、私たちの喜びは如何ほどのものでしょうか。くれくれも、奥様とアメリヤ嬢にもよろしくお伝えください。お二人にも是非お目にかかりたいものです。

船長、息子さんたちに捕鯨などさせずに、代わりに日本へお寄こしになってはいかがですか。その折りには、私が面倒を見てさしあげますから。そうなさる際には、私がいろいろ準備にあたりますので、事前にお知らせくださいますよう。

では、私がいかにして故郷にたどり着いたのか、お話しましょう。まずは、金鉱に向かったのはあなた様も、ご承知の通りです。そこには4ヶ月滞在。経費を除く一日の稼ぎは平均8ドル。ここから故郷に帰り、なつかしい母親に会おうと決心致しました。そこで、あるアメリカ商船に便を得て、サンドイッチ島に到着。私たちの友デーモン牧師に会い、牧師の世話によって捕鯨用ボートを買い求めることができ、これを中国(シナ)の上海行きの商船に積み込みました。

時は一月。かの地は非常に寒かったのです。琉球王国の南の地に上陸した時には、吹雪でシケていました。商船の船長は、私にそのまま船に留まり、一緒に中国に行くように強く勧めましたが、わたしはこれを断りました。なんとしても母に会いたかったからです。ボートの準備が整ったところで、私、伝蔵、五右衛門が乗り移り、ボートは午後四時に本船から離れました。十時間もの力漕の末、島かげに到着、そこに朝まで停泊。翌朝、琉球の地に上陸してはみたものの、言葉が全然通じません。私はすっかり日本語を忘れてしまったのです。私はこの地で琉球王国の保護を受けながら、6ヶ月もの間、日本の船がやって来るのを待ちました。

7月に入り、船の便を得て九州の長崎港へ。在留許可取得のため、ここで待つこと30ヶ月。諸手続きが整い、ようやく故郷の土を踏むことが許されたのです。母や親戚たちの喜びようは大変なものでした。母とは三日三晩過ごしただけで、将軍が私を召還したため、江戸へ向かわねばなりませんでした。私は幕府の仕官となり、現在は幕府の軍艦に勤務しております。

本艦は日本の天皇(*天子)によって、アメリカの大統領に敬意を表すために派遣されたものです。カリフォルニア州サンフランシスコに赴き、今は日本への帰途にあります。サンドイッチ島へは石炭と食料調達のため立ち寄りました。本当はサンフランシスコから手紙を出したかったのですが、日本人の目がじろじろうるさくて、ままなりませんでした。そういう訳で、サンフランシスコから島への船上でしたためるはめになったので、間違いだらけの手紙をお許しください。日本の江戸に着いた際には、もう少しまともなお手紙をさしあげるつもりです。

あなた様が日本に来られることを心より待ち望んでいます。親愛なる友であるあなた様を、なんとしても我が家にお迎えしたいのです。今では日本もすべての国に対して港を開いております。私たちの友、サムエル・C・デーモン牧師にもお目にかかりました。このときのお互いの喜びは、とても書き尽くすことはできません。帰国しましたら、もっと詳しい様子をお知らせ致します。

私の着物を一揃い、あなた様にお送りします。新品のものではありません。ただ私を忘れずにいて欲しいのです。
       
あなた様の友、ジョン万次郎(1860年5月25日)



(ここでの推定階段上り下り数・・・50段 トータル・・・970段

関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

10 | 2019/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: