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宇和島城下町散策

宇和島の城下町で見つけたその他旧跡などをまとめて掲載。



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宇和島城上り立ち門前にある児島惟謙像 

天保8年(1837年)に伊予国宇和島城下で宇和島藩士の金子惟彬(豊後佐伯氏の一族)の次男として出生したが、幼くして生母と生別したり、里子に出されたり、造酒屋で奉公したりと、安楽とはいえない幼少期を送った。

少年期、窪田清音から免許皆伝を認められた窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場へ入門、大阪財界の大立役者となる土居通夫と剣術修業に励む。 慶応元年(1865年)に長崎に赴いて坂本龍馬、五代友厚らと親交を結んだ。慶応3年(1867年)に脱藩して京都に潜伏し、勤王派として活動した。戊辰戦争にも参戦した。

1868年に出仕し、新潟県御用掛、品川県少参事を経て、1870年12月に司法省に入省。名古屋裁判所長、長崎控訴裁判所長などを経て1883年に大阪控訴院長となり、1886年には関西法律学校(関西大学の前身)創立を賛助し、名誉校員となった。

1891年に大審院長に就任し、間もなく大津事件が発生した。被告人である津田三蔵は大逆罪により大津地方裁判所に起訴されたが、総理大臣松方正義ら政府首脳が大逆罪の適用を強く主張していたこともあり、大審院は事件を自ら処理することとした。これに対して、児島は津田の行為は大逆罪の構成要件に該当しない(罪刑法定主義を参照)との信念のもと、審理を担当する堤正己裁判長以下7名の判事一人ひとりを説得した。結局、大審院は津田の行為に謀殺未遂罪を適用して無期徒刑を宣告した。司法権の独立の維持に貢献した児島は「護法の神様」と日本の世論から高く評価され、当時の欧米列強からも日本の近代化の進展ぶりを示すものという評価を受けた。
(wiki参照)




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児島惟謙の生誕地(市指定史跡)

城の南東側、市立図書館や宇和島税務署の傍に石碑が立っています。



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上り立ち門から道路を挟んですぐ南側にある大和田建樹の生家跡(市指定史跡)

「汽笛一声新橋を」と、あまねく世に知られた「鉄道唱歌」の作者大和田建樹は、安政4年(1857)4月29日、この地で生まれ、明治9年(1876)広島外国語学校入学のため出郷するまでの、学問修業の少年時代をここで送った。その後、建樹は上京して、さらに国文学を研究し、東京大学古典講習科講師・高等師範学校(東京)教授などになったが、35歳の時、教職を退き、専ら著作に従事した。著書は「謠曲通解」など国文研究書のほか、文学史・辞典・随筆・紀行・詩歌・唱歌等97種150余冊に及んでいる。建樹は明治43年(1910)10月1日、54歳で死去した。
(説明板参照)




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宇和島といえば闘牛も有名ですね(寄れなかったけど)。



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市内旧跡はほかにも国名勝の天赦園をはじめ、高野長英旧居、大村益次郎旧居などもあります。
今回寄ることができませんでしたが、いずれ訪問したいところです。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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