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樺崎台場 ~イギリス軍艦に礼砲を~

宇和島市立歴史資料館の駐車場に市内イラストマップが掲示されています。


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現在地を拡大

すぐ隣に樺崎砲台跡の表示があります。現地表示は全て樺崎砲台で統一されていますが、幕末に全国的に築かれた砲台のことを当サイトでは「台場」で統一表記しているので、ここでも表記は「樺崎台場」としておきます。どちらでも意味は通じるんですけれどね。



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歴史資料館2階から眺めた樺崎台場

石造りの構築物や説明板が設置されているのが確認できます。



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早速現地へ。先人の記録ではこの場所に復元された大砲模型が展示されていたのですが、なぜか撤去されていました。何か考証的に問題でもあったんですかね。模型なのだからなんでもよさそうなものですが。
ちなみにこの場所の先端から砲台へ飛び移ろうかと試みましたが、予想以上に段差があり断念。



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近くから見ると、やはり通常の城壁とは異なります。上部のくぼみの部分が砲眼で、周りの出っ張り部分が胸墻(キョウショウ)・隔墻(カクショウ)と呼ばれるもの。



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資料館で入手した資料には、昭和40年代にほぼこのアングルで撮影された写真が載っているのですが(左手の建物も写っている)、その写真では石垣が海に面しているように写っています。現在は埋め立てにより海岸線はだいぶ後退しています。



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市指定史跡 樺崎砲台

江戸末期には、当時黒船と呼ばれた外国軍艦が日本近海にしばしば出没するようになり、幕府は沿岸諸藩に防備を命じた。宇和島藩では、嘉永3年(1850)高野長英の設計による久良砲台を築造したが、のち宇和島湾にも砲台を設けようとして、宇都宮綱教、松田常愛の2人を奉行として、安政2年(1855)3月樺崎砲台築造に着手、同年12月完成、5門を据えた。ここはその砲台の跡で、当時はお台場といった。 
この砲台は宇和島藩が西洋の築造法を取り入れて造ったものの一つとして意義がある。ここにある碑石はこの砲台竣工の記念碑で、碑文は漢学者金子孝太郎の撰である。 
(説明板参照)


金子孝太郎は藩校明倫館の教授で、碑石は安政三年(1856)に建てられたもの。



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砲台復元想像図

5つの砲眼を持つ砲台が描かれていますが、現在目にすることができるのはこの図でいくと一番手前側の1箇所のみです。



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砲台の内側に回ると、木の柵がめぐらされ入口部分には鍵がかけられています。

普通では入れませんが、特殊技術により中へ。



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そもそも説明板が設置されているのにそこまで行けないというのが不可解なこと。

幕末、宇和島藩は攘夷態勢を固めるため、七代藩主伊達宗紀は藩士板倉志摩之助らを江戸の砲術家下曽根金三郎信敦に入門させた。下曽根は高島秋帆の高弟である。この高島流砲術が藩内では威遠流と称された。八代藩主宗城はこれを重用し、板倉は砲術師範として門弟を養成し、オランダ流砲術を藩内に定着させた。宇和島藩は、嘉永三年(1850)に高野長英の設計に成る御荘久良砲台を板倉らが完成させていた。ついで、宇和島湾内にも砲台を築造しようとしたが、安政元年(1854)の大地震による領内の被害が大きかったため、計画は一時中止された。この時、二宮長兵衛在明が樺崎御揚り場(埠頭)拡張とその横に砲台築造の計画があることを知り、その工費の献納を藩に出願した。藩は家老桜田佐渡を頭取、宇都宮九太夫綱敏・松田源五左衛門常愛を用掛りとして、翌安政二年(1855)3月、砲台築造に着手し、同年12月にこれを完成させた。海を埋め立てて台場を築く難工事であった。総面積513坪、器械蔵22坪であった。胸墻・砲眼・肩墻・隔墻・火薬庫などの施設と青銅製大砲五門は藩の手で作られた。安政三年、藩学教授金子孝太郎撰文の記念碑が建てられた。さらに元治元年(1864)、湾の対岸に戎山砲台が築かれた。慶応二年(1866)6月、英行使パークスの来訪に際し、樺崎砲台は礼砲を打っている。この洋式砲台は宇和島藩が西洋に眼を開いた遺跡として甚だ貴重である。
(説明板参照)




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砲眼跡

イギリス軍艦に礼砲を撃った件はアーネスト・サトウの記録にも見られますが、実戦には役立つものではないらしいとも記されています。



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砲台から見た歴史資料館。改めていい建物ですね。



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所在:愛媛県宇和島市住吉町2丁目
評価:★★

現在は海岸線がやや離れてしまっていますが、往時は海に面した砲台であったのでしょう。砲台の全景は残っていませんが、歴史的意義は大きいものがあります。歴史資料館とセットで見学をお勧めします。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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