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大洲城③ ~復活途上の城~

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天守から退出し、本丸探索へ。周囲を取り囲む塀がないので漫然とした印象。



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本丸廻り櫓跡

大洲城本丸は天守や台所櫓、高欄櫓などの主要な建物を多聞櫓(廻り櫓)でつないでおり、本丸全体が櫓で囲われた堅固な構えをしていました。



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北側の眺め



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南面の石垣



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本丸から眺めた4つの現存櫓のうちの一つ・苧綿櫓



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同じく本丸から眺めた4つの現存櫓のうちの一つ・三の丸南隅櫓

続いて本丸北側下へ移動。



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玉櫓跡

二の丸西隅にあり、付櫓をともなう二層の櫓。
この付近は肱川越しの攻撃に備え、特に堅固な防備が敷かれていました。



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鉄砲櫓跡

二の丸北東隅にあり、玉櫓と同様に付櫓をともなう二層の櫓。
肱川越しの攻撃に備えた櫓で、櫓の名称から鉄砲などの武器を納めていたと考えられています。

石碑は梶原利太郎翁顕彰碑。
明治から昭和にかけ畜産振興に寄与し、多くの表彰を受けた地元の偉人。



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北側から見た天守群

本丸内からよりもこの位置から見たほうが立派に見えます。



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北の菱御門(二の丸搦手門)跡

二の丸の裏門にあたる櫓門。ここからは帯曲輪を通じて、表御殿や城山の北側を巡る曲輪へ至ることが可能で、大洲城の防衛上重要な門の一つです。



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北の菱御門跡の下に見えるのは内堀菖蒲園
ほぼ完全に埋め立てられている大洲城の内堀・外堀の中で、内堀の名残をわずかに残す場所です。



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現在の案内図(再掲)

この図で天守の上のあたりに描かれているのが内堀菖蒲園。
内堀の端の部分に位置していることが分かります。



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駐車場まで帰還。市民会館の敷地には「雪見塚」という碑があります。

いざさらば 雪見に転ぶ ところまで

曰く、この碑は大洲の文学碑中最古のもので、宝暦四年(1754)に建てられたものであるという。設置場所は二転三転し、昭和60年現在地に移されたとのこと。



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苧綿櫓(おわたやぐら)

先ほど本丸から眺めた現存櫓の一つ。国重文。
本丸や肱川の対岸側から見ると石垣の上に櫓が載っている様子がよくわかるのですが、市民会館側からだとこのようにコンクリの擁壁に妨げられて下部の様子はうかがえません。

苧綿櫓は城山の東南山麓肱川左岸石垣上に建てられている。昭和32年6月18日、二重二階の櫓と棟札二枚が重要文化財の指定を受けた。
大洲城の創建については諸説もあるが、1596年から1617年(慶長元~元和三)にかけての造営と推定される。苧綿櫓がその頃からあったかどうか明らかでないが、加藤家所蔵の1692年(元禄五)の古地図に記載されているのを見ても、元禄以前に存在していたことは明白である。
現存の苧綿櫓は棟札にあるとおり大破したので、1843年(天保三)に改築されており、実戦的と言うよりもむしろ装飾性が強く、袴腰形石落し、北側の出窓等に表れている。石垣は安山岩を使用した割石乱石積、法勾配及び反り付きで、鯱は大洲藩お抱え瓦師原八兵衛の作である。
その後の改築は、大洲市が国庫の補助を得て、1958年(昭和33)8月1日着工、1959年(昭和34)7月31日に竣工、現在に至っている。(説明板参照)



ここで駐車場出発。料金は加算なしの150円で済みました。そのまま車で三の丸南隅櫓へ。
歩いても移動できる距離ですが、車を置きっぱなしだと加算料金がかかってしまいます。



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三の丸南隅櫓

4つの現存櫓・最後の一つ。建築年代は定かではないが、享保7年(1722)に火事で焼失し、明和3年(1766)に再建されています。厳しい藩財政の問題から再建するまでに40年以上かかり、使用木材にも経費をおさえる工夫がされているとのこと。大洲城に現存する最古の建物で、国重文。
この櫓だけ城郭の本体部分から離れているので、一番見逃されやすいかもしれません。
場所は三つ上に掲載の「現在の案内図」参照のこと。

大洲城は、地蔵獄亀ヶ岡城大津城などと呼ばれ、元弘年間以後は宇都宮氏八代の拠点であったが、その後、戸田・池田・藤堂・脇坂・加藤の諸氏が城主となった。現在に連なる近世城郭として建造整備されたのは、藤堂・脇坂両氏が城主であった慶長年間とみられている。元和三年(1617)加藤貞泰が領主として米子より入部し、以後、廃藩まで加藤氏十三代の居城となった。
城は、丘陵の上部を本丸として、東に肱川、北に久米川、西と南は堀をめぐらしているが、その外側南部の守りの要として南隅櫓を明和三年(1766)に築造した。
櫓は二重二階、本瓦葺となっており、内部は一室である。出窓はなく、外部両端に袴腰形石落としがあり、内部は総壁である。窓格子は化粧とし、軒棰は忠実に塗籠めにしている。(説明板参照)




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三の丸南隅櫓に面しているグラウンドはかつての外堀の跡。
図面と現地地形を照らし合わせてみると外堀のラインが浮かび上がってきます。



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さらにこの三の丸南隅櫓、無料で内部を見学することができます。記帳簿に記帳をしてから中へ。2階への急勾配の階段は踏板が割れたりしないかひやひやもの。2階は闇に包まれていましたが、階段を登るとセンサーが反応して明かりが点灯。棟札や隠狭間の説明などが展示されています。感覚的には古い倉庫の中に入ったような印象ですが(笑)、これも貴重な現存櫓です。完全無人で管理がちょっと心配なほど。



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三の丸並木跡

三の丸の南側にある西門から、南隅櫓に至る道筋にはかつてクロマツの並木があり、寛政11年(1799)に 描かれた絵図にも並木が描かれています。昭和37年(1962)には大洲市の指定天然記念物に指定されましたが、マツケムシの大発生により昭和53年(1978)までに全て枯死しました。

大洲高校の東側の道は「三の丸並木道」と呼ばれ、南側から見ると南隅櫓の先に大洲城天守を望む光景が見られます。



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所在:愛媛県大洲市大洲
評価:★★★★

松山城宇和島城の間にあって知名度的には後れを取っていますが、四層の木造復元天守と4基の現存櫓が建ち、見ごたえは十分あります。100名城に選定されているのも納得の城。惜しい点を挙げれば、内堀と外堀がほぼすべて湮滅してしまっている点と、天守建造物を取り囲む塀や門が備わっていない事でしょうか。堀の復活はかなり難しいでしょうが、門塀の復活は現実味があります。立派な天守が復活したので、その見栄えをよくするためにも続いては本丸廻り櫓の復元に取り組むのが一番効果が高いと思われます。天守の復元で復活完了ではなく、これからが復活の第2段階です。評価の伸びしろはかなり大きいです。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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