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大洲城① ~近世大洲藩6万石の藩庁~

新谷陣屋から、本日前半のメイン・100名城の大洲城へ。
肱川を跨ぐ肱川橋を通過するときに、対岸の高台に建つ天守の姿が見えてテンションが上がります。
この城は木造復元の天守が知られていますが、このほか4棟ある現存櫓の存在も忘れてはなりません。



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城に一番近い市民会館駐車場。有料で1時間150円。
少し離れたところに無料の駐車場があるらしいのだが、探すのがめんどくさいのでここに駐車(めずらし~)。
追加料金を取られる前に高速探索を開始します。

ちなみにこの駐車場に停める前、東側の郵便局手前あたりに「東門跡」の表示がありました。



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この表示

曰く、東門は城の大手にあたり、城下町側の高麗門と城内側の櫓門の間を土塀で囲んだ枡形広場が作られており、大洲城の城門の中でも一番の長さを誇っていたとのこと。門前の通りは今も枡形通りと呼ばれています。



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二の丸大手門跡

二の丸の正門(大手)にあたる門があった場所で、門を抜けると内堀にかかる土橋があり、東門と同じ櫓門のある枡形の構造となっていました。薬井門形式で、藩主の住む二の丸と藩士の住む三の丸との格式の差を表していたと考えられています。

この図でいくと現在の駐車場一帯は内堀を埋め立てた部分になります。



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ジバニャンだ



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元禄五年大洲城絵図

大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道がある。また、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現八幡浜市)があり、大洲は歴史的にはややひなびた立地ながらも交通の要衝といえる場所にあった。宇都宮氏が創建した当初は、肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれた。

江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えた。伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していた。また、明治維新後から現在にいたる地元住民の城郭への保護活動と、平成16年(2004年)に主に市民による寄付によって完成した往時を出来る限り忠実に復元した4重4階の天守も特筆すべき点である。江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓が国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。 (wiki参照)




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現在の案内図

この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年(1331年)のことであるといわれている。

豊房には子がなく筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子の宇都宮宗泰を養子に迎え、宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行うが、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏した。天正初年に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われた。しかし天正13年(1585年)にはその大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は一支城となった。

その後戸田勝隆が城主として入ったが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。

また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め明治維新を迎えた。 (wiki参照)




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櫓下御門(二の丸大手門)跡

この門は、二の丸の表門にあたる櫓門で、門前の石垣で囲まれた部分だけでなく、堀に架かる土橋の先まで、堀で囲った枡形を持つ点が特徴です。東向きの門の上には渡櫓がのり、門の南側と北側の石垣上にもそれぞれ櫓が建っていました。現在でも南側の石垣が残っており、当時の面影を偲ぶことができます。


引用は現地説明板より、以下同じ



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下台所(県指定有形文化財:建造物)

大洲城に残る当時の建造物は、重要文化財の4つの櫓と、この下台所のみです。城内の食料庫としての機能を果たしていたと言われています。建物の内部は一部2階建て、切妻造、本瓦葺、桁行19.82m、梁間7.90mの大きさで、外部は軒裏をふくめ漆喰塗込めの建物です。




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下台所の建つ平場からは本丸の天守群を仰ぎ見ることができます。



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俳人松根東洋城 大洲旧居

黛を濃うせよ草は芳しき   東洋城

正岡子規没後の日本俳壇の中で、高浜虚子、河東碧梧桐と並ぶ俳人に松根東洋城がいる。
東洋城は本名を松根豊次郎といい、明治11年(1878)2月25日、東京の築地に松根権六(宇和島藩城代家老松根図書の長男)を父に、敏子(宇和島藩主伊達宗城の次女)を母に長男として生まれた。
明治23年(1890)10月父権六が大洲区裁判所判事として大洲に赴任するに伴って、東洋城も大洲尋常高等小学校に転校して来た。当時、この屋敷が裁判官判事の宿舎で、明治31年(1898)10月、権六が退官するまで約8年間、松根家の人々はここに居住した。
東洋城は明治25年大洲尋常小学校を卒業すると、松山の愛媛県尋常中学校(のちの松山中学校)に入学した。4年生の時、夏目漱石が英語教師として赴任し、ふたりの運命的出会いがその後の東洋城の生き方に大きな影響を及ぼすことになった。
俳人東洋城は俳誌『渋柿』を創刊(大正8)、多くの同人を指導し、大洲にもしばしば訪れた。昭和8年(1933)この「大洲旧居」にも立ち寄り「幼時を母を憶ふ」と次の句を詠んでいる。

淋しさや昔の家の古き春   

また大洲の東洋城の句碑には、如法寺河原に

芋鍋の煮ゆるや秋の音(こえ)しずか
  
がある。大洲史談会により平成5年(1993)建立された。
東洋城は戦後、虚子と共に芸術院会員となり昭和39年(1964)10月28日東京で87歳で死去した。墓は宇和島市金剛山大隆寺にある。
なお、ここの家屋(平屋建)は、明治2年(1869)4月、大洲城二の丸金櫓跡に建てられたもので、江戸時代末期の武家屋敷の遺構が一部のこされている。




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二の丸御殿跡石垣

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御殿は、城主が政治を執り行う表御殿と、城主の住まいにあたる奥御殿に分かれていました。
下段が表御殿、上段が奥御殿。



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天守礎石 

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平成16年に完成した大洲城天守閣の復元に伴って、平成11年から天守閣跡の発掘調査が実施され、その調査により礎石と呼ばれる石が6個発見されました。礎石とは建物の柱の下に置かれた石のことで、建物を支える土台になります。発見された礎石の位置は天守閣復元図の柱の位置とほぼ一致し、大洲城天守閣の礎石であることが明らかになりました。大洲城天守閣の礎石は全部で16個あったと想定されますが、発見された6個以外はすべて抜き取られていました。礎石に使われた石はすべて緑泥片岩と呼ばれる石材で、フジツボが付着したものがあることから肱川河口の長浜周辺の海から運ばれてきたものと思われます。
こちらには復元された大洲城天守閣の平面図を原寸大で再現し、6個の礎石を移築して展示しています。正方形に表現した部分が天守閣の柱の位置になり、礎石は発見された位置に置いています。
天守閣の大きさは、南北11.82m、東西13.79m。




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本丸下段石垣

なかなか立派



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中江藤樹像

中江藤樹は近江国出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。諱は原、字は惟命、通称は与右衛門、号は藤樹。大洲は藤樹が10歳から27歳まで過ごした立志・感恩・勉学の地であり、これを追慕してこの地に銅像が建立されました。
近くには碑文や「遺愛の藤」があります。



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御門番長屋

この建物は、曲輪内の仕切り塀の門に附属する長屋です。名前の通り門番が詰めていた建物です。外観は絵図をもとに再建しました。




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井戸丸と石垣の修復

大洲城の本丸は、上段と下段とに分かれ、井戸のある下段の曲輪を井戸丸と称しています。井戸丸の西側には本丸下段の門と、それに付随する多聞櫓が建っていました。さらに南側には独立した二層の櫓が一棟ありました。
この井戸は、本丸にある唯一の井戸で、直径約3.8mあり、国内でも最大級の本丸井戸として知られています。
天守台の石垣は、過去の地震で何度か修理した記録が残っています。工事着手前の発掘調査では、石垣の内部にさらにもう一列石垣が検出されており、現存する天守台の複雑な築造過程の一端が明らかになりました。
天守解体後に天守台上部の石が取り除かれており、天守の復元工事に合わせて石垣を部分的に修復し、元の高さまで積み直しています。




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かま櫓跡

井戸丸の南にある約6m四方の二層の櫓。
この場所からは二の丸・三の丸がよく望めます。



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暗り門跡

この門は、天守に到る最後の城門で城内でも最も大きい櫓門です。現在とは異なり、かつては門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていました。通常の櫓門とは異なり、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、文字通り内部は「暗り」になっていました。仮に門を破られても、突き進んできた敵兵の勢いをそぎ、暗りのなかで混乱しているところを、攻撃する仕掛けになっていたと思われます。発掘調査では、正面の石垣の一部と石段およびその側溝が確認されました。


ということで本丸到着。


その②へ
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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