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松前城 ~かつての伊予の拠点の一つ~

松山空港を出発してr22を南下し、松山市から松前町に入ります。

松前町は人口約3万人で、これは町としては四国でも有数の人口の多い自治体となります。愛媛県内で面積が一番小さく、また唯一「山がない」自治体であるといいます。ちなみに読みは「まつまえちょう」ではなく「まさきちょう」です。

松前町に入り少し進むと、松前城を示す看板が現れます。



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The Ruins of Masaki Castle

「まつまえじょう」だと北海道の松前城になってしまうので読みは正確に。別名の「正木城」とセットで覚えれば読みも忘れません。
道路の反対側は東レの工場が広がっています。



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城址碑

背後は土盛りをされた地形になっています。

実はこの松前城、前回の第一次四国遠征時にすでに攻略しています。同じところには極力立ち寄らないのがマイルールの原則ですが、前回探訪の写真が消滅してしまったこともあり、今回うまい具合に経路上にこの城があったことを利用し写真再取得のため立ち寄り。前回探訪時にも感じましたが、周辺に駐車場はないので、車を停める場所に気を使います。



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土盛りの頂部にも城址碑



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松前城の起源は明らかではないが、平安時代初期すでにこの地に定善寺(性尋寺・今の金蓮寺)があり、軍事交通の要衝として、境内に砦が設けられたのが始まりであろうといわれている。 松前城の文字が初めて文献にあらわれるのは、建武三年(1336)祝安親軍忠状である。『大山積神社文書』によると、南北朝時代南朝方の合田弥四郎貞遠のたてこもる「松崎城」を北朝方の祝彦三郎安親が攻略したとある。「松前」は、古来「松崎」「真崎」「正木」「柾木」「満崎」等書かれており、「松前」に定着したのは、寛永十二年(1635)松平定行入国以来である。
湊川の戦に楠木正成を討った功により、砥部の豪族大森彦七が松前城主を兼ねたが、やがて荏原の平岡氏と交替する。正平年間(1360年頃)穴草入道、同出羽守らが松前城にいたが、南朝方で九州に赴いていた河野通直が大兵を率いて松前浜に上陸、松前城を攻略した。以後、松前城は河野氏の本拠湯築城の西方海上防衛の出城となった。その後、河野氏の武将栗上因幡守通宗、同但馬入道通閑らが松前城にいたが豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏らが相次いで侵攻し来り、松前城攻防の激戦が幾度となく繰り返された。
天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国征伐があり、河野通直は侵攻軍総帥小早川隆景の軍門に降って栗上氏らと共に安芸竹原に退去した。天正十六年(1588)、栗野木工頭秀用が松前城主となったが、秀次事件に連座除封された。文禄四年(1595)、加藤嘉明が淡路志智城より六万石をもって松前城に入った。翌慶長元年(1596)嘉明は足立重信らに命じ金蓮寺を現在地に移転、伊予川を改修して城郭及び松前港の大改修を行った。松前城の規模は明確ではないが、地の利を得て自然の要害堅固の城であった。慶長二年(1597)には嘉明は松前城を根拠地として2,400余名の将兵を率いて朝鮮に出兵した。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦に嘉明は東軍に従って出征したが、留守に毛利勢3,000が三津浜に上陸、河野氏の残党と松前城をうかがったが佃十成らの勇戦により撃退した。関ヶ原の功により二十万石となった嘉明は慶長八年(1603)松山城に移り松前城は廃城となった。
天保以降二の丸を耕地化し、余り土を盛った所が現在地である。明治42年耕地整理により様相は一変し大正11年11月23日龍燈の松が倒壊して松前城をしのぶものがなくなった。大正14年10月記念碑を建立し、昭和44年町指定史蹟となった。 (説明板参照)




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もう一つ、塙団右衛門の説明板

遠江に生まれたと言われ、名は直之。十八歳の頃、織田信長に仕えた。義侠心に富み、友情は厚かったが、直情径行、独断専行するところがあった。やがて士分に取り立てられたが、酒に酔って人を傷つけ追放された。その後、加藤嘉明に仕え、各地を転戦し手柄をたてて次第に昇進し、大豪の士として認められるようになった。文禄の役(1592年)では、縦横数メートルの旗を背負い活躍したという。文禄四年(1595)、嘉明が伊予国松前城に六万石の大名として封ぜられたときには団右衛門も松前に住んでいたのであろう。関ヶ原の戦い(1600年)では、嘉明の取って置きの鉄砲隊を指揮したが、独断で突撃した。奮戦したにもかかわらず、嘉明に「生涯、人の将たり得ず」とひどく責められた。団右衛門は納得できず、「遂に、江南の野水に留まらず、高く飛ぶ東海の一閑鷗」と床柱に墨書し城を去ったといわれている。また、「義農之墓」に並んで後年建てられた、平田東助子爵撰文の「義農頌徳碑」に使われた石は、団右衛門が松前を去る時に振り返った橋に使われていた石であるとして名付けられた「団右衛門見返りの石」という。大坂冬の陣(1614年)では、嘉明が東軍についたのに対し、団右衛門は豊臣方として本町橋(現・大阪市中央区)での夜襲戦を指揮し快勝するなど活躍した。夏の陣では勇敢に戦い豊臣方大将の最初の戦死者になったという。 (説明板参照)


真田丸でも登場した塙団右衛門。あの作品、結局コント大河だったなあ。
期待値が高すぎたのやもしれん・・・



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所在:愛媛県伊予郡松前町筒井
評価:

遺構らしきものはありませんが、表示物が充実し、由緒もあって個人的には好みの城。松山城の筒井門はこの松前城からの移築と伝わります。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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