FC2ブログ

記事一覧

首里城⑤ ~首里城「内」の世界~

御庭から建物内の見学に移ります。
番所から中へ。

南殿・番所スタンプ [14/25+2/2]


nanden_img_01.jpg
南殿(左)・番所(右) (画像は首里城公園HPより借用)

庭から向かって右側が「番所(ばんどころ)」、左側が「南殿(なんでん)」である。「番所」は、通常は首里城へ登城してきた人々の取次を行った所であり、「南殿」は日本風の儀式が行われた所である。
いずれも塗装を施したという記録がなく、また元々日本的な建築であるため着色はしていない。現在はいずれも資料展示スペースとして利用されている。

「南殿」は別名「南風御殿(はえのうどぅん)」とも呼ばれていた。創建は1621~27年といわれているが、発掘調査ではそれ以前の基壇らしきものも発見されている。建物は二階建で、地形を利用して裏側にある「書院・鎖之間(さすのま)」等に通じていた。

なお、番所の展示室中央に飾られている中国風の傘は、琉球では「御涼傘(うりゃんさん)」といい、もとは日傘から発生したものだが、実際は国王や高貴な人が行幸するときの装飾用として使われた。


番所、南殿には王国時代に製作された漆器や絵画等の美術工芸品などを中心に展示していますが、撮影不可のため写真無し。



P4110689.jpg
続いて書院鎖之間へ。ここは撮影できます。
前回来たときはこの建物はまだ復元されていませんでした。

書院・鎖之間は正殿につぐ大規模な木造復元を行った建物である。建物は、南殿の二階部分と同じ高さの地盤の上にあり、南殿と渡り廊下でつながっている。
きらびやかな正殿とは対照的に、建物と庭園が一体的で落ち着いた雰囲気のある往時の国王の執務空間を体感できる場となっている。
創建年は不明。1709年の火災により消失し、1715年頃に再建されたものと考えられている。また、鎖之間はその後、増築されたと考えられている。
平成21年に建物と庭園が国の「名勝」に指定された。


書院・鎖之間スタンプ [15/25+2/2]



P4110695.jpg
御書院

書院は国王が日常の執務を行った、御書院と言われる広間がある建物である。取次役や近習などの側近の者がその周囲に控えていた。また、中国皇帝の使者(冊封使)や那覇駐在の薩摩役人を招き、ここで接待を行うこともあった。
また、奥には内炉之間(うちろのま)と言われる茶室があり、御書院の裏座にあたり、お茶を点てて客人に振る舞っていた。
他に、茶道具一式を用意した御茶之間(おちゃのま)と言われる座敷がある。
現在、書院は琉球建築と庭園が一体となった空間を体感できる一般見学施設となっている。併せて復元の際に使用した和釘や瓦、継手・仕口、漆喰壁などを展示している。




P4110697.jpg
御書院



P4110701.jpg
内炉之間



P4110705.jpg
御茶之間



P4110691.jpg P4110698.jpg
鎖之間には入れず(営業時間前だった模様)

鎖之間は王子などの控え所であり、また諸役の者達を招き懇談する、御鎖之間(おさすのま)と言われる広間がある建物である。
また、奥には裏御座(うらござ)と言われる茶室があり、御鎖之間(おさすのま)の裏座にあたり、お茶を点てて客人に振る舞っていた。

現在、鎖之間においては、往時の賓客がおもてなしを受けたように、琉球のお茶菓子で接待を体験できる施設として利用できる。(別途有料)




P4110696.jpg
庭園

庭園は、書院・鎖之間と一体をなす重要なもので、城内で唯一の本格的な庭園である。書院に招かれた冊封使たちは、この庭園の魅力を讃える詩を詠んだ。その様子を「わだかまった松と蘇鉄とを、奇怪な格好をした石の間に、互い違いに植えている」と伝えている。
沖縄県内のグスクの中で、庭園があったことが分かっているのは首里城だけで、琉球石灰岩をたくみに利用した造りになっている。




P4110703.jpg
庭園


続いて近習詰所へ。ここと黄金御殿寄満は撮影禁止のため写真無し。

近習詰所は、近習頭や近習役、筆者、側近など、約20名あまりの役人が詰めていた場所である。その役人たちは、国王の朝夕の雑用や居住空間である御内原からの出入りに付き添っていた。
建物は南殿の東側に隣接し、南殿や黄金御殿などと2階部分で連結していた。
その内部には鈴引と呼ばれる小座敷や、御茶煮詰と呼ばれる部屋があった。建物の創建年は不明。
現在は、映像コーナー・休憩コーナーとして使用されている。




P4110707.jpg
鈴引

首里城は、政治を行う御庭側の「表」の空間と、居住スペースである御内原側の「内」の空間に分けられています。その境界は近習詰所と黄金御殿の間にあり、一方が他方に用事がある場合、鈴を鳴らして合図を送っていました。同様の例として、江戸城の本丸御殿で将軍が大奥に入る際、「御鈴廊下」を通って鈴のついた紐を引いて合図したとされることが挙げられます。



P4110708.jpg
黄金御殿入口 ここが「表」と「内」の境界

黄金御殿(くがにうどぅん)は、国王や王妃・王母のプライベートゾーンで、2階には居間や寝室があった。
建物の創建年は不明だが、1671年の首里城再建の記録に「金御殿」の記述がある。さらに1709年に正殿はじめ多くの建物とともに焼失し、1715年までに再建されたことがわかっている。建物は2階部分で正殿・二階御殿・近習詰所とつながっている。

寄満(ゆいんち)は黄金御殿につながった東西に細長い建物である。国王とその家族の食事を準備した所で、御台所(おだいじょ)筆者(ひっしゃ)、包丁、あがま(女中)、御水使、下代などがいた。黄金御殿と同様、1715年までに再建されている。

黄金御殿は特別展示室等、寄満はイベント等で使用する多目的室等が整備されている。


内部には美術品などが展示されていました。



P4110711.jpg
奥書院

奥書院は国王が執務の合間に休息した場所である。
建物の規模は3間×3間半(5.46m×6.37m)で、国王の部屋の他に奥書院奉行の控え場所があった。建物の創建年は不明だが、1715年頃に再建したという記録がある。
往時の奥書院は北側の近習詰所や西側の御物当詰所とつながっており、東側には苅銘御嶽が隣接し、南側には庭園があった。




P4110710.jpg P4110709.jpg
奥書院からは西側の書院や南側の庭園が眺められます。屋根瓦も独特。
 

この庭園は、国王が執務の合間に休息した奥書院の庭である。つくられた時期は、建物と同じく17~18世紀と推定される。絵図資料や古写真などから、物見に至る斜面に庭石を巧みに配した規模の小さな庭であったことがわかる。書院・鎖之間庭園が表向きの庭であったのに対して、プライベートな庭となっていた。
発掘調査では、この庭の主景とされる鍾乳石が出土した。この鍾乳石(欠損箇所を部分的に修復)を中心に、場内で出土した石材も利用して、古写真及び絵図資料をもとに庭園を復元している。




P4110712.jpg
苅銘御嶽(かわるめ-うたき)

城内に数多く残る御嶽のうちの一つ。



P4110714sb2.jpg
古絵図や現地に残る遺構をもとに復元されています。



P4110714sa1.jpg
首里城の「内」の世界である「御内原」は男子禁制で、生活・儀礼空間として多くの建物がありました。これらの建物は遺構・古写真・古地図等の関連根拠情報に基づき現在復元整備中。今後が楽しみです。



P4110718.jpg
この写真はただの塀と芝生に見えますが、この芝生部分が黄金御殿庭園と呼ばれるところです。



P4110717s.jpg
この庭園は黄金御殿2階の東側にあり、地表から石を高く積み上げて2階部分で約6坪(18㎡)の広場をつくり、周囲を瓦石垣で囲んでいます。詳細な資料は見つかっておらず、昭和10年代の古写真を参考にしています。



P4110716s.jpg
塀の先には右手に二階御殿、左手に寄満、奥には城の東側の城壁などが見えますが、探訪時にはこれらの中には入れませんでした。いずれ整備が整ったところで公開されると思われます。

しかし正殿以外でこれだけ見ごたえがあるとは思っていませんでした。うれしい誤算です。



P4110721.jpg
次回、いよいよ正殿内へ。


その⑥へ
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

04 | 2020/05 | 06
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: