FC2ブログ

記事一覧

前橋四公祭

平成28年11月20日、群馬会館にて「前橋四公祭」が開催されました。



PB200067s.jpg
前橋四公祭ポスター イラストは井田ヒロト氏

井田氏のことを述べると話がそれるのでここでは流しますが、例の作品の個人的お気に入りポイントは学ランの背中の紋章が群馬県章になっているところ。



PB200052.jpg
会場の群馬会館

昭和5年11月に昭和天皇の即位を記念して建設された県内最初の公会堂。



PB200076.jpg
格調高い建物は、国の登録有形文化財にも指定されています。



PB200074.jpg
「前橋四公サミット」開催まで時間があったので、先にホールの四家紹介ブースなどを見て回ることにします。
このホール自体も独特の内装であり、ドラマの撮影場所などに使われることもあります。



PB200059.jpg
酒井雅楽頭

前橋(厩橋)藩初代藩主・酒井重忠(譜代)から続く雅楽頭系酒井家宗家。
2代藩主忠世は幕府老中、大老。後代からも幕閣を輩出し続けたエリート家系。
9代忠恭のときに播磨国姫路に移封。



PB200056.jpg
松平大和守

結城秀康の流れをくむ越前松平家。酒井氏と入れ替わりに播磨姫路藩主から前橋藩主へ。
1代で川越藩へ転出するが、幕末に17万石で再び川越から前橋へ入封。
萩の城の項に前橋藩主松平家の位牌寺・森厳寺について掲載しています。



PB200065.jpg
秋元越中守

秋元越中守長朝。文禄元年(1592年)に井伊直政の推挙を受けて徳川家康の家臣となり、直政配下として上野国惣社に所領を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、戦前に上杉景勝詰問の使者として会津に赴いた。戦後も家康の命で再び会津に赴いて景勝に降伏を勧め、これを受け入れさせた。この功績により、1万石の所領を与えられて大名となった。館林藩秋元家初代。

当初の所領は「幻の上野国府」たる蒼海城。後に総社城を築城。秋元家墓所の元景寺は勝山城の項に、館林藩主秋元氏(旧秋元別邸)については館林城の項に、それぞれ記載しています。



PB200069.jpg
牧野駿河守

牧野駿河守忠成は第2代大胡藩主・越後長岡藩初代藩主。初代大胡藩主・牧野康成の息子。越後長岡藩の立藩を果たした忠成は、以後250年に及ぶ長岡藩政の礎を築いた。

大胡藩の藩庁・大胡城はぐんまの城50選選定城郭。牧野氏の菩提寺である養林寺は養林寺館の項で掲載しています。



PB200071.jpg
展示の目玉、お手杵の槍(のレプリカ)。日本三名槍の一つ。じいさんだらけの会場に場違いな若い女性(といっても30代くらいだろうけど)の姿をちらほら見かけましたが、これが目当てだったのでしょう。刀剣女子っての、実在していたんですね。ネット上だけの存在かと思っていた。

切先から石突までの拵えを含めた全長は約3.8m。槍身は穂(刃長)4尺6寸(138cm)、茎まであわせて全長7尺1寸(215cm)と桁外れの大きさで、これだけで大太刀や長巻以上である(ただし穂先の断面は正三角形で、あくまでも突くための武器である)。実見した本阿弥光遜によれば、刻まれた樋が「谷のような深い溝」であり驚嘆したという。現代の工作機械による切削と違い、手作業での鍛造による成型であり、極めて高い技量を物語る。

鞘は細長く杵のような形であり、そこからこの名がついたという。そもそも古い時代の杵とは現代では千本杵と呼ばれるもので、単純に長い棒のことであった。後の時代には、握りやすいよう中央をくぼませて両端が膨らんだ形の手杵が考案されている。この手杵の形を極端にデフォルメしたものが後の馬印用の鞘である。 下総国結城の大名・結城晴朝が作らせ、その養嗣子・結城秀康(実父・徳川家康)に伝わり、秀康の五男で結城氏の名跡を継いだ直基の子孫、松平大和守家(前橋・川越松平家)が受け継いだ。同家の象徴として、その名にちなんだ手杵の形を極端にデフォルメした巨大な鞘が作られ、馬印として参勤交代では先頭にあった。熊毛で覆われた高さ5尺(150cm)、直径1尺5寸(45cm)の大きさ、並はずれた重さであり鞘の重量は6貫目(22.5kg)あったと伝わる。道中で雨が降ると水を吸って10貫目(37.5kg)を越え、普通の人間にとっては運ぶことも大変だったといわれる。松平家には、御手杵の鞘を抜くと雪が降るという伝承があった。

江戸時代中に「西の日本号、東の御手杵」と並び称され、いつしかそれに蜻蛉切が入って天下三名槍と呼ばれるようになった。

御手杵はその後、東京大久保にあった松平邸の所蔵庫に移され保存されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲によって、所蔵庫が焼夷弾の直撃を受け、その中に保管されていた鎌倉時代以来の結城氏の古文書や式部正宗(重美指定)をはじめとした刀剣など多くの宝物とともに焼失してしまい、三名槍でただ一つ失われてしまった。

当主の松平直正の回想によれば、戦火を避けるために地中に埋めて保管するように家人に申しつけて出征したものの、代々仕える旧家臣の老人たちが、お家の宝にそんな扱いはできないと言いつけを頑として聞かず、それが仇となった。また、土蔵は湿気を抑えるために木炭を敷いたつくりだったが、それが内部からの焼夷弾の炎でかえって溶鉱炉のようになったのだろうという。戦後になって焼け残りを光遜のもとに持ち込んで復元を依頼したが、既にただの鉄塊と化していて不可能であった。

御手杵の写真画像は昭和9年(1934年)の書籍などで確認することができる。結城市所蔵の復元品は鍔がついており、太さも構造も違うが、当時はまだ研究が進んでいなかったためである。
(wiki参照)




PB200072.jpg
槍の前にいたじいさんがなかなか動かずに写真撮れず、どいたと思ったら槍が長すぎてろくな写真にならず。
難しいものです。

群馬県前橋市展示の御手杵槍

平成28年(2016年)、徳川家康薨去400年の御命日(4月17日)に松平大和守家の17代当主松平直泰により三本目の復元が試みられ松平大和守家に伝わる写真と古文書から寸法を正確に割り出した焼失した槍とほぼ同寸とされるレプリカが作成され松平大和守家所縁の前橋東照宮社務所に常設展示されている。




PB200073.jpg
この熊毛のモフモフを前述の女性たちはしきりに触っていました。周囲にいた解説員らしきじいさんはこれらの女性にはやらたなれなれしく解説していたのに、こちらには何の説明もなし。これだからじいさんは・・・

ぼちぼち会場の2階へ。



PB200082.jpg
チラシには事前申し込みが必要とあったのでわざわざ予約しておいたのですが、会場内へは名前の確認も何もなく素通りで入場。申し込みの意味って一体・・・



PB200090.jpg
開演間近になると全ての席が埋まってしまい、会場内で私が一番若いんじゃないかくらいのじいさんだらけの勢いでぎゅうぎゅう詰め。両隣にどっかと座り込んだじいさんたち、あんたら絶対事前申し込みしてないだろ。定員オーバーしたら会場封鎖しろって。

定刻になり、和服で登場した前橋市長のあいさつからサミット開始。



PB200092.jpg
最初のプログラムは槍術演武。宝蔵院流高田派槍術ということで、見事な演武を披露してくれましたが、私の左隣に座ったじいさんは開始4分でいびきをかいて眠りだす。何なんだこのジジイは。右隣のじいさんはずっとそわそわと落ち着きがなく、しまいには靴を脱いで足首クルクルし出す始末。おそらく身体的にじっと座ってられないタイプの人だったのでしょうが、それならなぜこの場にやって来たのだ・・・左隣のじいさんは途中の休憩時間で目覚め退出していったが、開いた席に即別のじいさんが座る。そんなに座りたいものか。このじいさんもしばらくしたら眠りだす。いびきをかかないだけましか。右隣のじいさんは基調講演の後には退出していった。



PB200095s.jpg
基調講演は滋賀県立大学・中井均教授による「近世大名墓と歴史観光」

私はもともと肩書で物事を判断しませんし、そのうえ(学術的な研究は別として)フィールドワークにおいては大学教授などよりも何倍も何百倍も城巡りをしているアマチュアがゴロゴロいるのが城館探訪という世界ですので、その考え(肩書よりも実績重視)はさらに顕著なものになります。ただし中井教授は私が素直に実績を認めることができる研究者の一人で、私の所持している城郭関連の図書にも中井教授が共著となっているものが多くあります。城館探訪の世界に足を踏み入れている人なら誰でも名前くらい聞いたことがあるのではないでしょうか。

公演についてですが、大名墓の活用について「墓は見世物ではないし観光地でもない、しかし地域の歴史をより深く学びたい人たちにとっては開かれた場とする」という考えは共感できるものでした。そして一番共感できたのが「サイン(解説・いわゆる説明板)の重要性」というところで、表示物重視の私の当初からの考えがここで認められた感がありました。昔は説明板のあるなしで評価を変えるのは邪道扱いされたものだったけど、ようやく時代が私に追い付いてきたようです(笑)

ちなみに中井教授、公演中に3回ほど「私の専門は城館研究」と繰り返していましたが、確かに城について詳しくない人からすれば「中井教授という人は墓マニアなんだ」と思ってしまうような今回の公演内容でした。私が中井教授を実際に拝見したのは今回が初めてでしたが、大名家の墓についてという「裏芸」も持っていることに感心しました。いずれ本業の城館に関する講演も拝聴してみたいものです。



PB200101.jpg
創作劇 前橋四公物語

淀君が秋元長朝の助けにより大坂夏の陣から落ち延び、そのまま総社で匿われたという話も取り入れられていました。この話は「お艶が岩」の言い伝えを基にしていると思われます。



PA290014.jpg
敷島公園にある「お艶が岩」

総社城の記事を書いた時に一緒に掲載しようと思いながらずっと時期を逃していた話で、いずれ詳細を掲載しようと思います(と先延ばしにすると、すぐに在庫に埋もれて忘れちゃうんだよなあ・・・)。


ともあれこんな感じの前橋四公祭、座席環境はよろしくなかったけど内容は面白かったです。第1回ということは今後も開催していくのでしょうか。「前橋の歴史にこれから力を注いでいく」的なことを前橋市長が力説していたので、毎年開催の可能性もありそうです。そのときはまた都合がつけば顔を出してみたいところです。
(完)
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

10 | 2019/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: