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勝連城④ ~国内初、古代ローマコイン出土!~

阿麻和利の話のラストは、妻の百度踏揚について。

百度踏揚(ももとふみあがり、生没年不詳)は、琉球王朝の王女。百十踏揚とも表記される。
第一尚氏王統第六代国王・尚泰久の娘。泰久王の妃は中城城主護佐丸の娘であるため、護佐丸の外孫にあたる。
はじめ勝連城の按司である阿麻和利に嫁いだ。1458年、阿麻和利は護佐丸に叛意があることを王府に知らせ、王命を受けてこれを追討した。しかし、阿麻和利自身が王府に対し謀叛を企てており、首里を攻める準備を進めた。踏揚は従臣の鬼大城(おにうふぐすく)とともに夫の許を逃れ、首里にたどり着いた。これにより阿麻和利の叛意は王府の知るところとなり、やがて鬼大城率いる王府軍に滅ぼされた。
そののち踏揚は勝連城主となった鬼大城の妻となった。しかし1469年、第一尚氏を滅ぼした尚円王のクーデターの際に鬼大城も討ち滅ぼされた。踏揚は玉城でひっそりと余生を送り、やがて若いながらに生涯を閉じた。墓所は南城市(旧玉城村)にある。 (wiki参照)


政略結婚に利用され、祖父は夫により攻め殺され、父と夫のはざまに立ち、夫を殺した男に嫁ぎ、二度も夫を失った百度踏揚。「悲劇の王女」と呼ぶに遜色ない彼女についても思いを馳せておきたいところです。



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一の曲輪へは階段が整備されていますが、本来の登城路は下にある石畳だったのでしょうか。石畳は傾斜がきつく、あえて登りにくくしているようです。



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眼前に迫る一の曲輪城壁



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一部本来の石畳を歩けます



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一の曲輪階段

一の曲輪階段は、敵軍による侵入などの勝連城有事の際の“最終防御ライン”としての役割を担っており、城内に攻め入った敵が一挙に侵入できないよう、上るにつれて階段幅が徐々に狭まる構造となっています。また、石積みに沿わせた道から敵の横腹を突いて撃退する仕組みなどの様々な仕掛けにより、少ない兵力でも敵軍と互角に戦える工夫が見られます。




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説明板イラスト

当時の装備でこの城を攻めるのは至難の業だったことでしょう。



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一の曲輪城門

踏み幅の狭い石段を上り切ったところに、かつて一の曲輪の城門がありました。周辺から出土した石材より、捲き髭状の浮き彫りが施されたアーチ型の門であったと考えられています。
琉球王国時代に編纂された沖縄最古の歌謡集『おもろさうし』 の中で、「かつれんは てだ むかて じょう あけて」と歌われており、東から昇る太陽に一の曲輪城門が誇らしく光り輝いていた当時の様子をうかがい知ることができます。




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まさに天嶮の要害



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上に同じ



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一の曲輪

標高約100m、勝連城内で最も高い位置に築かれた曲輪です。周囲360度見渡すことができ、周辺離島や本島北部の山々、南部の知念半島まで望むことができます。さらに、宿敵・護佐丸の居城である中城城も確認することができ、眺望の美しさだけでなく、軍事要塞としての特徴も備わっています。発掘調査より出土した遺物は、海外交易により得られた質の良い品々であったことから、かつて一の曲輪には、宝物殿のような建物があったと考えられています。


この時は芝生の養生中で一部立ち入りが制限されていました。



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南風原(はえばる)の港/クトジ御獄

勝連城は、かつて海外交易によって繁栄しました。交易船が発着する港は、現在の南原漁港近くの「浜川」と想定されています。港近くには「クトジ御嶽」という聖域があり、14~15世紀前半のグスク時代には、中国からの交易品がここに運ばれ供えられていました。航海安全や旅の幸運に感謝の祈りを捧げた後、勝連城に運びこまれたと伝えられています。この一連の儀式は、勝連の栄華の裏に、多くの危険を伴う航海があったことを物語っています。


この方角の先に中城城があります。



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玉ノミウヂ御嶽

勝連を守護する大きな霊石をご神体とする御嶽です。ここでは、村の繁栄が祈願されていました。霊石の表面が平坦にされていることから、グスク時代には、建物の基礎に利用されていたとみられます。発掘調査により、かつてこの曲輪には宝物殿のような建物があったことが分かっています。また、霊石脇にある洞穴は 「かつては二の曲輪のウシヌジガマと繋がっており、有事の際の避難路として使用されていた」 という伝説が残されています。




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平成28年9月26日、読売・朝日・毎日など主要全国紙朝刊、およびヤフートップページに勝連城の記事が掲載されました。

ローマ帝国のコインが沖縄県の勝連城跡で出土したと、同県うるま市教育委員会が26日、発表した。国内の遺跡からは初の出土で、14~15世紀の海上交易を介して流入した可能性があるという。

出土したコインは10枚。うち4枚に皇帝らしい顔やローマの文字が刻印されており、4世紀のローマコインとみられる。直径1・6~2センチでいずれも銅製。中国陶磁器を含む地層(14~15世紀)などから見つかった。1点はアラビア文字があり、17世紀製造のオスマントルコ帝国のコインとみられる。残る5点は分析中。

勝連城は世界遺産にも登録されており、12~13世紀ごろの築造。この地域で活躍した阿麻和利(あまわり)の居城とされ、15世紀の廃絶後もしばらく利用されたとされる。同市教委では整備事業の一環として発掘調査を進めていた。

沖縄では14世紀から16世紀にかけて海上中継貿易が栄えた。琉球王国は中国や東南アジアとも交流し、勝連城でも中国陶磁器が見つかっている。同教委は「西アジアや西洋を含めた世界史研究に寄与する成果。勝連城にかかわる人物が、西洋世界との接点をもつアジア世界のどこかで入手したのではないか」。オスマン帝国のコインについては後世この地へもたらされたのではないかとみている。

東西交流史に詳しい早稲田大中央ユーラシア歴史文化研究所の四日市康博さんは「ローマのコインは東南アジアでも出ており、ここを経由して流入したと考えられるが、後世の混入の可能性も含めて慎重に精査してほしい」と話している。
<朝日新聞>



沖縄県うるま市教育委員会は26日、世界遺産で国指定史跡の「勝連城(かつれんじょう)跡」から、3〜4世紀のローマ帝国のコインとみられる銅貨4枚と、17世紀のオスマン帝国のコインとみられる銅貨1枚が出土したと発表した。国内の遺跡から両帝国のコインが出土するのは初めて。勝連城はアジアとの交易で14〜15世紀に栄えたとされることから、市教委は「当時の沖縄と海外との交流を考える貴重な資料になる」としている。

市教委によると、2013年度に「四の曲輪(くるわ)東区」で遺構調査したところ、小さな円形の金属製品10点を発見。ローマ文字やアラビア文字、人物像が確認されたことから、専門家と分析した結果、5枚が両帝国時代の銅貨とみられることが判明した。

3〜4世紀のローマ帝国時代の銅貨とみられるのは4枚で、このうち2枚は14〜15世紀と推測される地層から出土した。大きさは直径1.6〜2センチ、厚さ0.1〜0.17センチ、重さ1.5〜3.6グラム。当時の皇帝とみられる肖像やローマ字が打たれているものもある。

また、1枚はオスマン帝国の銅貨とみられ、直径2センチ、厚さ0.6ミリ、重さ1.2グラム。「1687年」を示す当時の暦が刻まれているのが確認された。

勝連城は12〜13世紀に築かれ、民衆から人気が高かった有力按司(あじ)(領主)の「阿麻和利(あまわり)」の居城として知られる。阿麻和利が首里王府軍に攻め入られて敗北したことで1458年に廃城した。2000年に世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして登録された。
<毎日新聞>




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地域誌ではなく全国紙の、しかも朝刊に掲載されるというのは大きなことです。調査結果は少し前には出ていたのに、ちょうどこの城の記事を作成中のときにピンポイントで公表するなんて、狙ってやったんじゃないかと勘繰ったほどでしたよ(この記事が出るまでの今回のタイトルは「悲劇の王女・百度踏揚」でした)。

私は現在は日本の城巡りばかりしていますが、高校時代は世界史のほうに重点を置いて学習して世界史マニアになっていた過去があり(全国模試で偏差値75を叩き出した実績あり)、ローマ帝国やらオスマン帝国やらの文字を見ると無性に血が騒いできます(笑)



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1687年といったらオスマン帝国は第二次ウィーン包囲失敗後の大トルコ戦争の真っ最中で、全盛期を過ぎて混乱期に入って久しいころです。この後結ばれたカルロヴィッツ条約以降、オスマン帝国は衰退期に入ります。ちなみに同時期の東洋は清の康熙帝の時代で、長い全盛期に入ったところ。ネルチンスク条約が結ばれたあたりですね。

ローマ帝国コインの方については現時点では大まかな年代以外私の知る情報が少ないのですが、もしかしたらコインマニアの方なら詳しい情報を持っているかもしれません。



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もちろん単純に考えれば1458年に廃城した勝連城とはローマもオスマンも時代が合いませんが、廃城後も城は祭祀の場などで存続していたと考えられるわけですから、そこで時代の異なるコインが出土されても特段おかしなことではありません。出土状況を含めて慎重に検討すべきではありますが、いろいろな仮説が成り立ちそうで、想像力が掻き立てられるところです。



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最後はイケメン阿麻和利で締め



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所在:沖縄県うるま市勝連南風原
評価:★★★★☆

私的真百名城選定城郭。今帰仁城と同様、遺構と物語性の両面が高水準で楽しめます。麓から見上げた時の圧倒的な存在感は、世界遺産の5つのグスクの中でも随一でしょう。まだ復元されていない部分も多く、現日本100名城が選定された2006年当時に選から漏れたのはそのあたりが理由なのかなと思われます。つまりまだ伸びしろがあるということで、もっと往時の姿に近づき、麓に資料館でも併設されれば、その時は満を持して五つ星になることでしょう。期待してます。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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