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勝連城③ ~「肝高の阿麻和利」天下統一の夢~

阿麻和利の話の続き。

琉球王朝の正史には次のように伝わります。「1458年8月、王命として護佐丸を包囲し自刃させた阿麻和利であったが、宿敵を討った阿麻和利自身が天下統一を目指し、王府に対し謀叛を企て、首里を攻める準備を進めた。このとき妻の百度踏揚(百十踏揚)は従臣の鬼大城(おにうふぐすく)とともに夫の許を逃れ、首里にたどり着いた(踏揚の父は国王尚泰久)。これにより阿麻和利の叛意は王府の知るところとなり、やがて鬼大城率いる王府軍に滅ぼされた」・・・と。

琉球王になる野心を抱いた阿麻和利が、邪魔者である王府の忠臣護佐丸を殺し、返す刀で首里を攻めようした。しかし計画が露見し、今度は逆に首里に攻め滅ぼされた・・・王府側の記録ではこのように記されています。しかし他方、勝連地域では別の人物像が伝わります。そのことを示すものとして、沖縄の古謡「おもろさうし」には、次のように謡われています

一 かつれんわ なおにきや たとゑる
   やまとの かまくらに たとゑる
又 きむたかは なおにきや
  (勝連は、なんにたとえようか、京都や鎌倉にたとえる
   又 気高き勝連は、なんにたとえよう

一 かつれんの あまわり
   とひやくさ ちよわれ
又 きむたかの あまわり
又 かつれんと にせて
又 きむたかと にせて
  (勝連の阿麻和利、千年も万年もこの国を治めよ、
   又 気高き按司阿麻和利よ 又 勝連にふさわしく
   又 きむたかの名にふさわしく


「肝高(きむたか)」とは「心豊か」「気高い」などを意味し、高い生活文化を称えた勝連および勝連城の美称でもあります。前回私が命名した「反逆のカリスマ」こと阿麻和利ですが、この「肝高の阿麻和利」こそが最もふさわしい通り名であるかもしれません。



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城内にも「肝高」の名がついているところがあります。それがここ「肝高の御嶽」。

神人と呼ばれる女性祭司を中心に行われる、王国時代から続く「ウマチー」という年中行事の拝所です。旧暦二月と三月に「麦」、五月と六月には「稲」の、それぞれ初穂や豊作を祈ります。
御嶽の近くには、神人たちが腰掛けたと言われる石列(トゥヌムゥトゥ)があります。以前は、ウマチーの際に神人たちの前で若者が「イユコーイミソーリー(魚を買って下さい)」と呼びかけて回ったといわれています。




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この場所からは、二の曲輪の舎殿がこのように見えたと考えられています。



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肝高の御嶽の手前には複数の「すり鉢状遺構」が検出されており、現在は埋め戻され位置の表面表示がされています。直径約7.5mで、遺構の表面には粘土が貼り付けられていました。この施設の用途については、「飲み水を溜めていた」とする説や「儀式に使われていた」とする説などあり、未だ解明されない謎に包まれた興味深い構造物です。



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御庭(うなー)

「御庭」とは、三の曲輪に広がる空間のことです。前方の二の曲輪には政治が行われたと考えられる舎殿があり、これを御庭からあがめる空間配置は、首里城をはじめ、多くのグスクにおいて同様の構造が見られます。儀礼の場として使われており、グスクにおいて最も重要な場所の一つと言えるでしょう。


ここでよく観察すると、二の曲輪へ上がる階段の平面部が手前に傾斜していることが分かります。

勝連城の階段の多くは踏面が傾斜しており、足が滑りやすく、大変上りにくい構造となっています。これにより、敵軍の突進力を減退させることができました。築城当時は、他地域との激しい戦争が繰り広げられていたことから、簡単に攻め込まれないための対策であったと考えられます。この傾斜は、降雨時における城内の水はけを良くするための工夫ともなっており、当時の建築技術の高さをうかがい知ることができます。




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二の曲輪基壇

基壇とは、建物の基礎になる石や、土で一段高く築いた場所のことです。二の曲輪と三の曲輪の境は、石灰岩切石積みで築かれ、南北全長約41m、ほぼ一直線に造られています。南側では約2m奥に入っており、他部分より古い時代の建築であったと推測されます。これにより、二の曲輪に存在した舎殿は、長い歴史の中で、少なくとも二度の建て替えがあったと考えられています。




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基壇上からの雄大な眺め

続いて二の曲輪へ。



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二の曲輪

二の曲輪には、勝連の政治上、最も重要な建物があったと考えられています。周辺から瓦が出土することから、当時、首里城浦添城などでしかみられない瓦葺屋根の建物があった可能性があります。現在では、その礎石跡を地上に復元しており、建物の大きさを知ることができます。また、一の曲輪に続く石畳道も残っており、当時の人々の足跡を感じることができます。




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舎殿跡

正面約17m 奥行き約14.5mの、やや長方形の舎殿跡が発見されました。この建物は首里城正殿のような柱の多い構造で、礎石のあるしっかりとした造りであったことが分かっています。勝連城の城郭内で、最も重要な建物であったと考えられています。舎殿が建てられた時代、屋根は板葺きが主流でしたが、周辺からは大和系瓦も発見されていることから、「瓦葺きの建物であった」という説もあり、勝連の栄華が偲ばれます。


建物の四隅には礎石のほかに写真にあるような石灰岩による石積みも発見されています。この石積みは建物と同時にあったと考えられていますが、機能についてはわかっていません。



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二の曲輪の多くは建物跡で占められており、舎殿の大きさをうかがい知ることができます。
それとこの二の曲輪、反対側から見ると逆側の海を眺めることができ、大変爽快です。
この場所で政治を執り行えば、自然と雄大な思想も育っていきそうです。



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ウミチムン(火の神)

「ウミチムン」とは「三個のかまど石」を意味する言葉です。琉球古来の信仰で、火の神が祀られています。この信仰は現在も続いており、沖縄の各家庭では台所に「火の神(ひぬかん)」を祀り、家内安全を願う風習が残されています。また、藪地島、浜比嘉島、久高島、津堅島など、神話を残す周辺の島々を、遙かに拝む場所でもあります。




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ウシヌジガマ

左側の碑板には「勝連城之守護神」と彫られています。

「ガマ」とは、沖縄本島南部に多く見られる自然洞穴のことです。「ウシヌジ」には「身を隠し、凌ぐ」という意味があり、このガマは「身に危険が及んだ時に逃げ込む場所であった」といわれています。




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覗いてみると確かに穴が。どこまでつながっているかは不明。

1458年、首里王府軍によって攻め入られた際、難攻不落とされた勝連城も、最後は力尽きてしまいました。この洞穴は一の曲輪「玉ノミウヂ御嶽」脇の洞穴と繋がっており、城主である阿麻和利は、ここを抜けて現在の読谷村まで逃げ延びたという伝説が残っています。




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説明板イラスト (左)ウミチムン (右)ウシヌジガマ



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突端大好きの私はこの曲輪でも城壁下を覗いてみたのですが、角度が急すぎて距離感覚が鈍るほどです。登山をして高所から下の木々を眺めることはあっても、真上から木を見下ろすってのはそうそうありませんからね。人のつむじを真上から見ているような妙な気分になります。(左写真)
右写真のように、少し視線を先に送ったほうが高度差を実感できます。



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それでは最後、いよいよ一の曲輪へ


その④へ
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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