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今帰仁城④ ~英雄伝説の残る絶景~

前回その③では今帰仁城の沿革について一通り触れましたが、今回はいくつかエピソードをピックアップしながら残りの探訪記を紹介していきたいと思います。

・エピソード1
その昔、天孫氏が琉球の王となって、北の要として今帰仁城を築いたという。強弓で知られる鎮西八郎源為朝の子が九州から琉球に渡り、天孫氏を滅ぼして舜天王と名乗り、異母弟の大舜を今帰仁城主にしたと伝わる。・・・これを聞いた時は英雄伝説を好む本土人が創った伝説かと思いましたが、意外や意外、同様の記述が琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などに残されています。尚氏の権威付けのために創作された伝説とも考えられていますが、面白い話です。



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志慶真門(しげまじょう)郭

城内で最も東に位置する郭。昭和55年度から57年度に発掘調査が実施され、志慶真門郭と大庭との通路石敷が確認されています。郭内の地形はゆるやかな傾斜地で、造成工事により段差を設け、建物の建立がなされています。



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石灰岩の城壁

地山を削り、自然の岩を利用して積み上げる工法。今帰仁城では現在も調査と修復が進められていますが、当初から最も原形をとどめているのはここ志慶真郭の城壁なのだそうです。このような城壁型石塁は大陸では多く見られます。本土でも城壁型の防塁は各地に残っていますが、中世末期から近世にかけて斜面の擁壁のような形での高石垣が発達したため、城壁型の城は一般的ではありません。ちなみに土塁に囲まれた城は無数にあり、これが本土では「土で成る」=城とされた所以。



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城壁 奥には海も望める

・エピソード2
三山鼎立時代の末期、今帰仁城は北山王・攀安知(はんあんち)に治められていました。この北山王は「武芸絶倫」で「淫虐無道」、荒々しくもカリスマ性も備えていたことが文献に記されています。再び琉球王国の正史『中山世鑑』を紐解くと、今帰仁城陥落時には最後まで部下たちを鼓舞し、数千の軍勢に対してわずか17騎で立ち向かおうとしたなど、決して屈しない姿が記されています。



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主郭からも確認できた城壁の切れ目

志慶真門郭の南側には志慶真門があったこと明らかになっており、ここがその跡であるようです。今帰仁城の山手側にはかつて志慶真集落があったと伝えられ、城から集落へ通じる門が志慶真門でした。

・エピソード3
中山王との戦いでは、城内の裏切り者がこの裏門から敵軍を侵入させ、難攻不落といわれた今帰仁城もついに陥落したと伝わっています。この裏切りについて、以下の伝承が紹介されています。

北山王攀安知は己の武勇にものを言わせ富を集めていましたが、国頭、名護、羽地の諸按司たちは不満を募らせていました。やがて、佐敷(中山)の尚巴志が台頭し、1416年、尚巴志の連合軍と攀安知は合戦を交えます。しかし、(今帰仁城は)屈指の堅城で攻めあぐんでいたためにらみ合いとなりました。そこで尚巴志は城中の大将で欲深い本部平原にワイロを贈り謀反を企てるよう誘いました。翌日、本部平原は攀安知に「攻撃に出て、王は表、私は裏の敵を追い散らしましょう」と誘い、これを計略と知らず攀安知は尚巴志の軍勢を深追いします。やがて、城中から火の手が上がるのを見てあわてて引き返すと本部平原が城門で「わが手に討たれよ」と叫び一騎打ちとなりました。怒り狂った攀安知は先祖伝来の宝刀「千代金丸」で本部平原を斬り殺し、もはやこれまでと城の守護神カナヒヤブの霊石を切りつけ返す刀で切腹をしようとしました。しかし、これが切れなかったため志慶真川に投げ捨て、腰の小刀で切腹して果てました。後に千代金丸は志慶真川から拾われ尚家に献上、天下の至宝として大切に保管 されました。 (今帰仁村HP参照・一部補足)




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ガイダンス広場にあった模型(再掲) まさに城の裏門に該当

・エピソード4
志慶真門を突破していったのは若き軍団長・護佐丸(ごさまる)。護佐丸の曽祖父は今帰仁按司であったが、初代北山王の怕尼芝に討たれたという因縁があり、中山軍の一員としての北山攻めは、先祖の敵討ちでもありました。この護佐丸については勝連城中城城の項でも登場してきそうです。



動画



ぐるりと一回転



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志慶真門郭内の建物は約6m×6m或いは4m×5m程度の規模で、中に炉跡が見つかっています。瓦が出土しないことから、茅か板葺の掘立柱建物であったと考えられています。また、建物間を結ぶ石敷道や石段なども検出されました。発見された4つの建物には、城主に使える身近な人々が住んでいたとされます。出土品には武貝類・陶磁器・装飾品・子供用遊具などがあり、これらの出土遺物より家族単位の生活が営まれていたことが考えられています。



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志慶真門郭全景

・おまけのエピソード1
上で登場した「守護神カナヒヤブの霊石」は、城内で最も神聖な場所「テンチジアマチジ御嶽」(その②で掲載)にあったとされており、北山王が自害する直前に「お前だけ生き残ることは許さぬ」と、宝刀千代金丸で十文字に切り裂いてしまったといいます。割れた霊石は誰かに持ち去られてしまったとされ、現存していない。

・おまけのエピソード2
霊石を切りつけた後、自害した妻子に続いて切腹しようとしたところ、刀が主を守ろうとしたのか、刃が鈍って切れず、千代金丸を川に捨てた後、別の小刀で自害し、拾われた千代金丸は中山王に献上されたと伝わります。この刀は琉球王国の宝剣として伝わり、現在国宝に指定されています。

このように、単に遺構を見て回るだけでなく歴史や伝承にも興味をもっておくと、史跡巡りはまた一段と楽しいものになってきます。



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主郭城壁と海

志慶真門郭の探索終了。訪問時にはぜひここまで足を運んでみましょう。
最後にその②で後回しにした御内原へ向かうことにします。



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御内原(うーちばる)の説明



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先ほど観光客が大勢いたところは、時間をおいて来たら一組の夫婦だけになっていました。ちなみにこの夫婦に頼まれて記念写真を撮影しています。

さて、城内で最も開けている御内原の北側からの眺望は・・・



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おお、すばらしい!

眼下に広がる郭はこれまでも言葉だけは登場してきた大隅(うーしみ)。城内で一番広い郭で、城外への抜け道と伝わる洞穴もあります。馬の骨や歯が大量に出土しており、城兵達が乗馬訓練等を行った練兵場であったと考えられています。



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城壁と海のコントラストがまた格別。グスク交流センターも見えます。

・・・おや、あそこの城壁、一部崩れているぞ。



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拡大

調べたところ、2014年の9月に崩落があったようです。こちらのページに詳細が掲載されていますが、これを見ると不成型の石を高く積み上げるというのは難しいことですね。平成13年にも城壁の崩落は起きており、堅牢に見えても崩れやすいものであるということを認識しておきたいところです。沖縄は台風が頻繁に上陸するため、暴風雨の被害が大きいことも影響しているのでしょう。

城壁の崩落前には大隅にも立ち入ることができましたが、訪問時は立ち入り禁止になっていました。



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城壁越しの東シナ海

美しい眺めです。リーフの内と外で海の色が異なって見えていますね。奥には離島も見えています。



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離島拡大

晴れた日には伊是名島・伊平屋島が、特に晴れた日には沖縄本島北端の辺戸岬の先22km洋上にある与論島(鹿児島県大島郡)まで眺めることができます。



最後に動画



2時間ほど前はスコールだったことを考えれば、この光景を見ることができたのは幸運なことでした。



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所在:沖縄県国頭郡今帰仁村今泊
評価:★★★★★

さすがは世界遺産。築かれた年代を考えれば非常に巨大で、かつ実戦的な城郭です。石垣の曲線美は文句なしに素晴らしく、伝承も豊かで、遺構面とストーリー性というハードとソフトの両方が高レベルで充実しています。近辺には海洋博公園があり、観光で訪れた場合はそちらがメインになるかもしれません。美ら海水族館や海洋文化館、おきなわ郷土村などが点在し、一日楽しむことができるでしょう。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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