FC2ブログ

記事一覧

高槻城 ~キリシタン大名高山右近の城~

飯盛山城からR170を北上し高槻市街地にある高槻城へ。
この城は再訪になります。こちらの記事参照。
極力再訪はしないなんていつも偉そうに言ってますけど、高槻城もほかの多数の城と同様に前回登城時の写真が消滅してしまったので、今回ちょうど経路上にあったことを利用して写真収集のため立ち寄り。



PA090385.jpg
市立しろあと歴史館

前回はこちらに無料Pがあることを知らずにかなり苦労しました(ただし駐車台数は少なめなので期待しすぎは×)。今回は駐車はできましたが、17時を過ぎていたので歴史館内には入れず。残念。



PA090382s.jpg
AR高槻城

この時の私にはまったく縁はありませんでしたが、今の私ならタブレットを起動させるでしょうね。
対比して描かれている江戸期と現在の平面図は非常に役立ちます。この図によると現在の槻の木高校の校舎が建っているところが本丸の跡地であるようです。



PA090387s.jpg
工兵第四聯隊(中部第29部隊)の営門



PA090392.jpg
珍しい形状の城址碑

室町時代は入江氏の居城であったが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主となった。天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれた。豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられた。内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わった。

明治7年(1874年)に廃城となり、東海道線が敷設される際、石垣や木材などがその資材にあてられた。現在、城域の一部が城跡公園として整備され、復元石垣、高山右近像が建てられている。
(wiki参照・以下同じ)




PA090403.jpg
普通の城址碑もあります

10世紀の末、990年に近藤忠範が久米路山と呼ばれる小丘に築城したのが高槻城の始まりと言われているが確証はない。高槻城の文献上の初見は、大永7年(1527年)の桂川原の戦いで山崎城に詰めていた薬師寺国長が波多野稙通に攻められ、高槻城に逃亡した記録である。

その後、芥川山城に三好長慶が入城した天文22年(1553年)には高槻城は支城となっていたようで、入江春継が城主となっていた。長慶が永禄7年(1564年)に亡くなると、三好三人衆の1人三好長逸がこの地域一帯をおさめていたが、織田信長が摂津に侵攻、永禄11年(1568年)9月28日に芥川山城を落城させると、高槻城も無血開城に近い形で降伏した。

永禄12年(1569年)1月、本圀寺の変で15代将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する時に、三好三人衆と行動を共にしていた入江春継は敗退し、自害して滅んでしまったようである。この時逆に活躍したのが芥川山城主であった和田惟政で、信長より高槻城も与えられ高槻城を本城とした。この時から高槻城は近代城郭として大きく様変わりしていく。

キリスト教の最大の理解者であったのは、その後城主となる高山父子であるが、和田惟政もよき理解者で宣教師を迎え入れたり、城内に教会を建設しようとしたが白井河原の戦いで戦死し頓挫した。その後高山友照・右近父子が城主となって天正4年(1576年)に念願であった教会を建設、天正11年(1583年)には修学寮も建設し、領内には20ヶ所の教会、当時の高槻領人口の60%以上、1万8千人もの人々がキリスト教徒となり、宗教活動を活発にしていたようである。




PA090393.jpg
高槻城跡公園

石垣は模擬天守台ということらしいですが、本来の場所とは離れたところに設置されています。

天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が討たれると、豊臣秀吉は大坂城の築城に着手し、右近は天正13年(1585年)に船上城へ転封、高槻城は秀吉の直轄領となり城主となったが、同年末には亀山城へ移っていた。高槻城は豊臣方の代官数名や新庄直頼が城主となったが関ヶ原の戦い後、今度は徳川氏の直轄地となる。徳川方の代官や青山忠成が城主となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で高槻城は補給基地となって徳川方の勝利に貢献した。

元和元年(1615年)6月に内藤信正が城主に、元和3年(1617年)に土岐定義が城主となると、高槻城は完全な近代城郭として改修した。ついで松平家信、岡部宣勝、松平康信と城主が代わり、慶安2年(1649年)に永井直清が城主となる。永井直清は侍屋敷の拡張、城下町の整備、領内では水田開発、各所に碑を建てて文化行政にも力を注いだ。その後永井氏は13代にわたって高槻城主となり幕末に至る。

明治4年(1871年)7月、廃藩置県により廃城。明治7年(1874年)には破却が始まり、向日町駅 - 大阪駅間の鉄道敷設用材として石垣などが利用された。明治42年(1909年)から昭和20年(1945年)までは、大日本帝国陸軍工兵第4連隊が駐屯した。昭和22年(1947年)に高槻市立第一中学校、昭和26年(1951年)に大阪府立島上高等学校(現・大阪府立槻の木高等学校)が設置された。本丸跡にあたる槻の木高校内には高槻城跡の石碑が建てられている。




PA090398.jpg PA090399.jpg
PA090396.jpg PA090402.jpg
公園内には明確な遺構と呼べるものは見当たりませんが、随所に説明板が設置されており旧跡をなぞることができます。



PA090395.jpg
お久しぶりの高山右近像

高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であり、天文21年(1552)頃に、摂津高山で生まれたとされている。右近と父・高山飛騨守は、主君和田惟政の敵・荒木村重と結び、惟政の遺子惟長を追放し、元亀4年(1573)右近は高槻城主となった。摂津国主である荒木村重が織田信長に反旗を翻した天正6年(1578)、村重へ子や妹を人質に出していた右近に、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、降伏をすすめた。これに対し右近は、苦悩の末開城したといわれる。その後右近は、山崎合戦には秀吉に仕え功績を挙げた。右近が高槻城主であったのは、播磨明石に移封されるまでの12年間だった。右近は、千利休の七哲の1人である茶人でもあり、「利休極上一の弟子也」ともうたわれている。天正14年頃、秀吉と利休を茶会に招いたこともあり、南坊と号していた。キリシタン大名としての右近は、天正2年(1574)城の側に壮麗な教会堂を建て、キリスト教の伝道に努めた。当時2万5千人の領民の内1万8千人(約72%)がキリシタンになったといわれている。秀吉がバテレン追放令を発したとき、右近は改宗を拒否し、領地を没収されている。禁教令を出した徳川幕府により、慶長19年(1614)10月、国外追放処分を受けた。マニラ到着後、40日ほどで熱病におかされ、慶長20年2月5日に亡くなった。(現地説明板より)




=============================================
所在:大阪府高槻市城内町
評価:★★

再訪なのでさらっとで終了。公園内に明確な遺構はないものの、高校敷地周辺には土塁跡らしきも見られ、その他城域内の随所に城の痕跡が残ります。説明板が数多く設置されている点も◎。今回紹介できませんでしたが、しろあと歴史館は入場無料で展示内容も充実しているので、ぜひ立ち寄ってみましょう。復元模型などは必見です。
=============================================
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

10 | 2019/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: