FC2ブログ

記事一覧

飯盛山城② ~畿内の覇者・三好長慶の居城~

再掲縄張図

PA090300s.jpg
いったん頂上まで登った後にまた逆方向に下るのもちょっとしんどいですが、とりあえずこの図において主城域の北端に表示されている「二ノ丸史蹟碑郭」まで探索してみることにします。



PA090306.jpg PA090309.jpg
高櫓郭から本丸展望台郭、さらに本丸倉屋敷郭へ次々と下っていきます。展望台郭(いかにも後付けの名称だな・・・)から石段を下った際、ちょうど後ろから登山客が降りて来たので比較対象に1枚(左写真)。ナイスタイミング。倉屋敷郭は細長い平場で、北側先端にライオンズクラブの石碑が建っています。また、この郭の下には帯郭も見受けられます。



PA090311.jpg PA090315.jpg
倉屋敷郭から先は岩が露出した急斜面で、天然の石垣の役割を果たしています。そのまま進むと三本松郭ですが、そのまま郭内を直進すると郭の北側先端が未整備の急斜面となっており大変な目にあいます。表示看板の通り、東側下を巻いている新道を使いましょう。



PA090316.jpg
猛毒キノコに注意!

いや、あからさまに警戒色ですやん。食べる人いるの?



PA090319.jpg
三本松郭を過ぎると堀切らしきが一本入り、また二股。
この上が二ノ丸御体塚郭となっています。登ってみましょう。



PA090322.jpg
御体塚

畿内の覇者・三好長慶はこの城で死去しました。その死は外部に秘せられ、この岩場に埋葬されたと伝わっています。以下合わせて南北朝期以降の城の沿革も記載していきます。引用はすべてwikiより。

・・・天文年間に畠山義堯が河内を支配するようになり、家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構える。この時に臨戦的陣城から恒久的な居城に改修されたと思われる。




PA090324.jpg PA090327.jpg
御体塚郭の先はまたも急勾配

足利義維を擁する細川晴元が実権を握った為、束の間の平和が訪れるかに思われた。ところが細川高国を討滅させたという大きな軍功を挙げていた三好元長と木沢長政の対立が、新たな戦乱を引き起こしていた。




PA090328.jpg
堀切

御体塚郭の急な切岸と合わさって防御力を高めています。

対立の発端は、河内を巡る主権争い、守護代の木沢長政が守護の畠山義堯(義宣)から守護職を奪い獲る企てが発覚したことにある。享禄4年(1531年)8月、怒りをあらわにした義堯は三好元長の一族三好勝宗(三好一秀)に頼んで飯盛山城を攻めたが、長政からの援軍要請を受けた細川晴元によって撤兵命令を下されたため、三好勝宗は一旦兵を収めている。しかし翌5年(1532年)5月、態勢を整えた義堯と勝宗は飯盛山城を再攻、三好元長にも増援を要請している。そこで長政も再び晴元に援軍を要請したが、畠山・三好連合軍の攻囲を排除させるには至らなかった。




PA090329.jpg
飯盛山史蹟碑

1924年に設置された碑。この碑があるから郭の名称は「二ノ丸史蹟碑郭」。これも後付けですね(笑)

そこで自軍での武力排除を断念した晴元は、山科本願寺の法主証如に一揆軍の蜂起を要請。この背景には元長が肩入れする本願寺の対立宗派・法華宗へのライバル意識を巧みに利用したものと思われている。




PA090330.jpg PA090331.jpg
飯盛城 拠りて長慶 覇をきそう」

17歳になった証如は、祖父の実如の遺言であった「諸国の武士を敵とせず」という禁を破って、同年6月5日に山科本願寺から大坂に移動、摂津・河内・和泉の本願寺門徒に動員をかけた。これに応じた門徒は、総勢3万兵に及ぶ大軍だったと言われている。6月15日に飯盛山城の攻囲軍を背後から襲った一揆軍は、三好勝宗を含む200余兵も討ち取り、退却する畠山義堯も追撃し6月17日には自害に追い込んだ。




PA090332.jpg
二ノ丸史蹟碑郭は主城域の北端近くということで、眺めも良いです。方角によって光の加減が変わるからでしょうが、本丸の展望台からよりもここからのほうがよく見渡せました。

なおも6月20日、三好元長の逃げ込んだ和泉顕本寺を取り囲んだ一揆軍には各地より続々と新たな門徒が集結したため、10万兵まで膨れ上がったとも伝わっている。そこで元長を含む80兵余りを血祭りに挙げた一揆軍の脅威により晴元は勝利し、長政も命を拾ったものの、蜂起を収束させない一揆軍の暴走が天文の錯乱に発展していく。




PA090345.jpg
来た道を戻ります。全く同じルートを戻るとそれぞれの郭への登りが連続するので、巻道を有効活用して無駄な体力の消費を抑えます。このルートを使うと途中いろいろな場所で残存石垣を目にすることができます。写真の石垣は御体塚郭下のもの。

その後、木沢長政も太平寺の戦いで父の仇であった三好長慶に討ち取られてしまう。長政亡き後、城主になったのが交野城の城主であった安見宗房である。安見宗房は畠山高政の家臣であったが、自ら河内の守護代を名乗り主君の高政を紀伊に追放してしまう。永禄2年(1559年)、長慶は高政を援けるべく兵をあげ、宗房は大和に敗走した。高政はこの三好軍の手際の良さを逆に驚き、河内への進出を阻止すべく、敵対した宗房を正式に守護代に任命、再び飯盛山城に配置した。この処置に憤慨した長慶は高政の居城高屋城を攻囲、援軍に駆けつけた安見軍を寝屋川付近で撃退し、高政・宗房は共に堺へ敗走し、翌永禄3年(1560年)11月13日に飯盛山城に入城した。この時から長慶は飯盛山城を居城と定め大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になったと思われる。




PA090350.jpg
この石垣は本丸下のもの

巻道を通ると、東側下の尾根沿いに郭が伸びているのが確認できます。本丸で入手した案内図によるとそれなりの規模の石垣群が東側尾根に設置されているようですが、登山道は未整備で立ち入りは制限されています。頑張ればたぶん見れたと思いますが、そこまでしなくてもいっかーということでスルー。はい、めんどくさかったのですよ。

翌永禄4年(1561年)、畠山高政は根来衆を引き連れ反撃を試み、飯盛山城の支城となっていた三箇城を攻め落とし、翌永禄5年(1562年)の久米田の戦いで長慶の弟実休を討ち取り、同年4月に飯盛山城への総攻撃が開始したが、背後から長慶の弟安宅冬康や松永久秀の援軍が襲いかかり、長慶も狭撃して畠山軍を撃退した(教興寺の戦い)。




PA090353.jpg
再び山頂まで登り、小楠公にご対面。

長慶も飯盛山城芥川山城高屋城を拠点に畿内で勢力を拡大しようとした矢先に、永禄6年(1563年)8月に一人息子の三好義興が22歳で急死、ついで翌7年(1564年)、安宅冬康も流言によって自殺させると、長慶自身も病に取りつかれ同年7月24日、43歳で没した。御体塚曲輪跡には死後3カ年仮埋葬されていたと言われている。

その後三好義継や三好三人衆が飯盛山城を治めていたようだが、織田信長により摂河平定が行われると三人衆も軍門に下り、飯盛山城は畠山昭高の所有となった。遊佐信教の反乱によって昭高が殺害されると、これに激怒した信長の攻撃を受けて信教は殺害され(高屋城の戦い)、天正4年(1576年)に落城し廃城となった。




PA090355.jpg
高櫓郭から今度は南へ。行ったり来たりで大変。上り下りが加わるのでなおさら。

・・・下るとすぐ特徴的な地形が現れます。



PA090356.jpg
見事な土橋

高櫓郭の背後は大規模な堀切によって断ち切られ、細い土橋一本で連結されています。



PA090358.jpg
見事だったのでもう1枚

そのまま南へ下ると岩がちの斜面となり、再び堀切も現れ防御は厳重。



PA090362.jpg PA090364.jpg
下りきったところに車道が現れる。これがその①で出た4差路のところから上に続いていた舗装路でした。ここまで車で登ってこれたんだなあ。

ここから南へ再び登っていくとFM送信塔が建っている平場となり、かつての千畳敷の跡となります。写真はカット。城域は千畳敷からさらに南に続き、手元の案内図によると南丸や畝状竪堀が描かれていますが、そこまで興味を惹かれないので(笑)、千畳敷にて探索を終えました。



PA090367s.jpg PA090369.jpg
千畳敷から車道を使って戻ると大回りになってしまうので、ショートカット敢行。案内図ではハイキングコースとして描かれていないが、心眼をもって最短距離で降りる道を発見。



PA090371.jpg
八大龍王堂白龍大明神

ここに出るとは。



PA090373.jpg
社から楠公寺の駐車場まで、一直線の石段で帰還しました。

以下全盛期の三好長慶について。

永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた(他に近江・伊賀・河内・若狭などにも影響力を持っていた)。当時、長慶の勢力に匹敵する大名は相模国の北条氏康くらいだったといわれるが、関東と畿内では経済力・文化・政治的要素などで当時は大きな差があったため、長慶の勢力圏の方が優位だったといえる。

この全盛期の永禄2年(1559年)2月に織田信長がわずかな供を連れて上洛しているが、長慶とは面会せずに3月に帰国した。4月には上杉謙信(当時は長尾景虎)が上洛しているが、長慶は謙信と面識があり、6年前の上洛では石山本願寺に物品を贈りあったりしたというが、この時の上洛では面会は無かったようである。

この頃、河内国では遊佐長教が暗殺された後、新たに守護代に任命された安見宗房(直政)が永禄元年(1558年)11月30日に畠山高政を紀伊国に追放するという事件があった。これを見て長慶は松永久秀を永禄2年(1559年)5月29日に和泉国に出兵させたが安見方の根来衆に敗北、久秀は摂津国に撤退し、長慶も久秀と合流して6月26日に2万の大軍で河内に進出した。そして8月1日に高屋城、8月4日に飯盛山城などを落とし、高政を河内守護として復帰させ、宗房を大和国に追放して自らと通じた湯川直光を守護代とした。また、宗房追討を口実に久秀は大和へ進軍、河内と大和の国境付近にそびえる信貴山城を拠点として大和の制圧を開始した。

細川家家中においても三好氏の権力は頂点を極めた。この永禄2年(1559年)は長慶の権勢が絶大となり、長慶の嫡男・慶興が将軍の足利義輝から「義」の字を賜り義長と改めた(後に義興と改名)。この頃にはかつての管領家である細川・畠山の両家も長慶の実力の前に屈し、永禄3年(1560年)1月には相伴衆に任命され、1月21日に長慶は修理大夫に、義興は筑前守に任官した。1月27日には正親町天皇の即位式の警護を勤め、財政難の朝廷に対して献金も行なっている。このためもあってか、2月1日に義興が御供衆に任命されている。

永禄3年(1560年)、長慶は居城を芥川山城から飯盛山城へ移した。芥川山城は息子の義長(義興)に譲渡した。居城を飯盛山城へ移した理由については、「京都に近く、大坂平野を抑えることが出来る、加えて、大和国への進軍も円滑に行える」という根拠が指摘されている。また、三好氏の本領は阿波国だが、飯盛山であれば堺を経由して本領阿波への帰還もより迅速に、楽に出来るという理由もあった。ただし、芥川山城よりも、京都との距離は離れていたとする永原慶二の指摘もある。永原は京都との距離こそ離れるようになったが、大和・和泉・河内方面への強い進撃・進出の意欲を見せた拠点変更であり、そこには長慶の自信が満ち溢れていたとも指摘している。この他天野忠幸によれば、拠点候補として高屋城と飯盛山の二つがあったが、高屋城は河内国一国の政治的拠点であるのに対し、飯盛山城は河内のみならず、大和と山城を視野に据えて合計三ヶ国に政治的影響を及ぼすことが出来る政治的拠点であり、ゆえにこちらを拠点に選択したと指摘される(ただし、後述のように天野は別の論文で、三好氏の家督と芥川山城についての見解を切り離して表明している)。

一方で飯盛山への拠点移行について、こうした政治的観点とは別に長慶の精神的な観点からの研究もある。杉山博は「長慶の心はこの頃吟風弄月の文の世界へ向けられていた」と指摘、鶴崎裕雄、須藤茂樹は、「長慶の精神には隠者的な傾向が見られる」とも指摘している。また、天野忠幸は長慶の嫡男である義興が将軍から一字を与えられ、三好氏歴代の官途である筑前守に任ぜられたことを重視して、長慶の拠点移行と三好氏の本拠地の問題は別の問題として捉え、飯盛山への移転によって三好氏の家督は事実上長慶から義興へと譲られ、同時に三好氏の本拠であった芥川山城も新しい当主である義興に継承されたと説いている。なお、天野はこの時期に家督継承が行われた背景として、将軍義輝と三好氏の長年の対立を収拾させるために新当主・義興が義輝との新たな関係を作るのが構築させ、自分は将軍権威と一定の距離を保つのが望ましいと判断したと推測している。

ところが、この永禄3年(1560年)に河内国の情勢が激変した。長慶の支援で守護に復帰した畠山高政が守護代の湯川直光を罷免して再び安見宗房を復帰させたためであり、長慶は高政の背信に激怒し高政と義絶、7月に東大阪市一帯で畠山軍と戦って勝利した。7月22日には八尾市一帯で安見軍を破り、高屋城を後詰しようとした香西・波多野軍、根来衆なども丹波から来援した松永長頼が破った。このため10月24日に飯盛山城の宗房が、10月27日に高屋城の高政が降伏開城して長慶は河内を完全に平定し、高屋城は河内平定の功労者であった弟の実休に与え、自らは飯盛山城を居城にした。また畠山家の影響力が強かった大和に対しても松永久秀に命じてこの年に侵略させ、11月までに大和北部を制圧して久秀に統治を任せた。

永禄4年(1561年)3月30日には義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎え、5月6日に義輝の勧告で細川晴元とも和睦、摂津普門寺へ迎え入れた。また嫡子の義興はこの年に従四位下・御相判衆に昇任するなど、三好家に対する幕府・朝廷の優遇は続いた。この年までに長慶の勢力圏は先に挙げた8カ国の他、河内と大和も領国化して10カ国に増大し、伊予東部2郡の支配、山城南部の支配なども強化している。この長慶の強大な勢力の前に伊予の河野氏など多くの諸大名が長慶に誼を通じていた。



=============================================
所在:大阪府大東市北条、四條畷市南野
評価:★★★★

私的真百名城選定候補。遺構も規模も歴史性もすべて十分なレベルで、案内パンフレットも立派な縄張図付きの最高なもの。むしろこれでなんで国指定史跡になってないの?という感じの城です。wikiには「ハイキングコースになっているため遺構が良好に保存されにくい側面がある」とか書いてありますけど、全然問題ないレベルだと思いますけれどねえ(もっとひどい環境で史跡指定されているところはいくらでもある)。多分そう遠くない将来史跡指定を受けるような気がしますよ。
=============================================
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

10 | 2019/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: