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飯盛山城① ~名をぞとどむる小楠公~

高屋城から再びR170外環状線に乗り一路北上。途中いくつか寄っておきたい城もあったのですが、時間が思いのほか押していたので(朝出発するのが遅れたのが響いた)ばっさりカットし、大東市と四條畷市にまたがる*飯盛山城を目指します。
(*大東市による公式名称は飯盛城となっていますが、ここでは一般的に知られている飯盛山城の表記で統一します。)

八尾市のあたりまではスムーズに進めたものの、東大阪市に入ったあたりで渋滞し始め、それを避けてうっかりR170旧道へ入ったらこちらは生活道路のような国道で、余計に酷い渋滞にはまってしまう。ここでかなり時間をロス。阪奈道路も一回南側の一通路線に入りかけてしまい、さらに時間をロス。



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ようやく阪奈道路入り

急坂を登り、峠付近にある信貴生駒スカイラインより手前で左手の飯盛山方向へ入る、ということを頭に入れていたので、その通り進んだのですが・・・



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離合不能の細道

曲がる場所が早かったようで、かなり厳しい道を進む羽目になりました。この道からも到達することはできましたが、この狭路の先も曲がりくねった細道が続き、通行は全くお勧めしません。阪奈道路のもっと峠近くに「大阪産業大学生駒キャンパスグランド入口」の看板がある分かれ道があり、そこから入ったほうが安心です(帰路はそちらの道を使用)。



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突然現れた野球練習場

へ~、大阪桐蔭高校の野球部グランドってこんなところにあるのか。
周囲は山しかなく、、麓に降りるのも一苦労の、まさに練習しかできない環境ですね。こりゃ強くなるわけだわ。



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←楠公寺1kmの表示があるが     ・・・ホントにこの道で大丈夫なの?



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大丈夫でした。楠公寺に到着。寺の前には十分なスペースがあり、ここに駐車します。
このあたりの平場一帯が飯盛山城の馬場跡であると伝わります。



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八大龍王堂参道

帰路通ることになります。



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楠公寺から奥に進むと「滝谷楠水の場」の表示があり、下る階段がありましたが、ますは城を探索してからと考え後回しにしました。ただし帰路この場所を通らなかったため、結果探索し損ねてしまいましたが。 しばらく舗装路も続いていて、実際はじめは途中の4差路(看板の写真のところ)まで車で乗り入れたのですが、舗装路は飯盛山山頂とは別の方向に延びていることと、あまりに道が細く急斜面だったことで引き返し、楠公寺前に駐車しています。



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しばらく山道(ハイキングコースとして整備されている)を登り、展望台がある山頂近くに到着。
この場所が本郭で、展望台周りには登山ルート図等いろいろな表示物が掲示されています。



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この展望台もご多分に漏れず老朽化が進んでいるらしく、やんわりと登ることが制限されていましたが、自己責任で上へ。



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スモッグが・・・

左手奥にうっすら映るのは梅田付近の高層ビル群か。さらに左手(写真外)には1本だけ高い建物が見えましたが、それが「あべのハルカス」だったのかな。空気の澄んだ好天時には明石大橋や淡路島、四国まで望むことができるそうです。

飯盛山の標高は314mほどですが、標高≒平野部との比高のため、相当本格的な要害となっています。
私もいろいろと山城は登ってきましたが、比高300m超となると数えるほどしか登城していません。



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飯盛山城跡を国指定史跡へ!

これはもしかしたら烏帽子形城が大阪府で城館としては78年ぶりに国史跡に指定されたことを受け、対抗意識が芽生えたものかもしれません。縄張図を見ると山上の広範囲にわたり普請がなされています。この比高の山城というだけでも数は絞られてくるのに、その中でもこれだけ大規模な普請がなされている山城となると、全国的に見てもかなり限られてくるでしょう。



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備え付けのガイドマップ、最後の一冊を入手!

このマップには上記の写真の縄張図が掲載されており、あるのとないのとでは天と地の差です。



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展望台からはどちらに進もうか迷いましたが、とりあえず隣接する山頂を目指します。
登ってきたのは写真左手の道から。



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飯盛山山頂

25m×15mほどの削平地があり、本郭の上に位置する高櫓郭の跡。
城址碑(飯盛山城ではなく飯盛城表記)や楠木正行の銅像が建っています。

正平3年(1348)、四條畷の戦いで北朝方の高師直が6万の兵を率いて四條に着陣。太平記によると「懸下野守、その勢五千余旗飯盛山に打ちあがりて」という記載が見受けられ、南北朝騒乱に際して築城されたのが始まりであるとみられています。



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楠木正行像

楠木正成の嫡男で、「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公」とも呼ばれています。以下wiki参照。

正成の長男として河内国に生まれた。幼名は多聞丸。幼少の時、河内往生院などで学び武芸を身に付けた。延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いで父の正成が戦死した後、覚悟していたこととはいえ父の首級が届き衝撃のあまり仏間に入り父の形見の菊水の短刀で自刃しようとしたが、生母に諭され改心したという。
正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって南朝方として戦った。正成の嫡男だけあって、南朝から期待されていたという。足利幕府の山名時氏・細川顕氏連合軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破っている。
正平3年/貞和4年(1348年)に河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦い(四條縄手)において足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の正時と共に自害して果てた。嘉暦元年(1326年)生まれだとすれば、享年23。但し、享年に関しては諸説があり、前述の通り、父の戦死時に20歳前後だったとすれば、享年は30歳前後となる。
先に住吉浜にて足利方を打ち破った際に敗走して摂津国・渡部橋に溺れる敵兵を助け、手当をし衣服を与えて敵陣へ送り帰した。この事に恩を感じ、この合戦で楠木勢として参戦した者が多かったと伝えられている。
かねてより死を覚悟しており、後村上天皇よりの弁内侍賜嫁を辞退している。そのとき詠んだ歌が
「とても世に 永らうべくもあらう身の 仮のちぎりを いかで結ばん」である。
この合戦に赴く際、辞世の句(後述)を吉野の如意輪寺の門扉に矢じりで彫ったことも有名である。決戦を前に正行は弟・正時や和田賢秀ら一族を率いて吉野行宮に参内、後村上天皇より「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」との仰せを頂いた。しかし決死の覚悟は強く参内後に後醍醐天皇の御廟に参り、その時決死の覚悟の一族・郎党143名の名前を如意輪堂の壁板を過去帳に見立てその名を記してその奥に辞世を書き付け自らの遺髪を奉納したという。

かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる


現在飯盛山の北西麓に鎮座する四條畷神社はこの楠木正行を主祭神としており、周辺住民からは「楠公さん」と親しまれているといいます。



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防空監視所跡

昭和14年に設置されたもので、「国威宣楊」の文字が刻まれています。



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縄張図

最初に中央の山頂部に登ってしまったので、主城域を見るには両サイドへ行き来しないといけません。これはかなり効率悪し。頂上だけでなく手前にも(私の場合だと楠公寺のあたりに)案内図(あるいはパンフレット)を設置してもらえると、あらかじめ登城ルートを考えることができるので便利ではないでしょうか。


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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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